奈良大学で解体修理されていた四天王像から墨書が発見され、菅原寺(喜光寺)に安置された仏像であると判明し、2019年に特別公開が行われています。
約150年ぶりの里帰り公開となり、その際に参拝しすることができ大変貴重な機会となりました。堂内は撮影可能でありお賽銭を供え参拝後撮影させて頂きました。
喜光寺は行基菩薩ゆかりの寺として知られ、古くは「菅原寺」と呼ばれていましたが、748年に聖武天皇より「喜光寺」の寺号を賜りました。行基菩薩は東大寺造営に当たり、喜光寺の本堂を参考にされたという伝承から「試みの大仏殿」とよばれています。
今回里帰りした四天王像は本堂に祀られていた仏像です。四天王像は行基菩薩御作とされ仏堂の四方を守る役目を担い、邪気を踏み一般的には憤怒の形相をしています。
今回展示されている四天王像は、かつて額安寺(大和郡山市)に伝来し、その後奈良大学に移されていました。寺伝では額安寺の四天王像は菅原寺(喜光寺)から移されたとされており、今回はその寺伝が正しいことが証明された事になります。
明治時代国家施策により神仏分離令により喜光寺は廃寺寸前にまで荒れ果てて四天王像もその頃額安寺に移されたとされています。神仏分離令で貴重な仏像が廃棄や焼却処分されたことは日本各地で記録に残されています。白洲正子氏の古寺巡礼の著作では大和の地を歩くとその頃は池にも小川にも無数の仏像が放置されていた。と歴史を記録されています。丹波の山寺では飛鳥時代や奈良時代の作だろうか中宮寺 木造菩薩半跏像(国宝)広隆寺 木造弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)国宝の似た仏像が安置されていた。廃仏に抵抗した人々が密かに山中に保存し戦後しばらくして掘り出した仏像とのことでした、朽ち果てた仏像もありましたが1000年以上も保存されていたとは思えない品格のある穏やかな仏像でした。時代の流れととは言えこのような愚挙を国家がなせねばならなかったのか不思議でならない。現代でも同じような破壊行為が世界各地で行われてはいますが歴史は繰り返すのでしようか。
150年ぶりに本堂の里帰りした四天王像は持国天・増長天・広目天は平安時代末期〜鎌倉時代初期の作風が、多聞天は鎌倉時代初期の作風が見られ、江戸時代には少なくとも3度の大規模な修復作業が行われています。今回の解体修理では広目天・多聞天の像内から江戸時代に書かれた「菅原寺」の墨書の他、「行基大菩薩御作」の墨書も見つかっています。行基大菩薩御作と書かれているものの実際には行基菩薩の活躍した奈良時代に作られた仏像ではありませんが、「行基大菩薩御作」と書かれた江戸時代には伝承で行基菩薩が作ったとされていたものと考えられます。行基菩薩ゆかりの寺ならではの伝承とも言える確証となっています。
いかなる愚かな治世者が場当たり的に存在しても知性と叡智に満ちた人間の創造した歴史は消し去ることができない証のようだ。
観光施策で最も人気のあるの寺院とのことです。貴重な文化財ということより人々が長年信仰し続けて現代に残った仏像をこのようにして復元して将来に残せる人の叡智に蓮の撮影に訪れて知らされて感動させられました。
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