スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(兵庫)が付いた投稿を表示しています

明石魚の棚 歴史と散策

明石城は、今から400年前の1619年(元和5年)に、初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が外様大名の多い西国の備えとして、徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ築城されています。 この明石築城の開始と同時に町割りと設計が始まりました。町割りに采配を振るったのは剣豪・宮本武蔵とつたえられています。 当時完成した15ヶ町のうち、東魚町は城の正面に最も近い場所にあり、鮮魚や練り製品の店が集められその西にある西魚町は塩干物の問屋と小売りの町でしたが、この東魚町、西魚町あたりが現在の魚の棚商店街の東西の通りになっています。 この通りは全長350mのアーケードには、明石特産の海の幸や練り製品、海産物の乾物などを扱う商店を中心に約110店舗が軒を連ねています。 新鮮な魚が多く、ここ「うおんたな」の商店街ではほ、コンビニやファミレスでは食べられけない国産のほんま物の鯛やタチウオ、エビなど美味しい食べられます。さらには干物も練り製品もあり歩くだけでも楽しい通りです。鯛と海老を買い求め美味しく食べた次第です。 NIKON   D600  AF-SNIKKOR35mmf1.8GED

師走の 明石魚の棚商店街

鮮魚店を中心とした店が全長350mにもわたり連なり魚介類が豊富な商店街です。タイやタコをはじめ明石海峡で獲れた活きのいい魚を求めに、魚の棚では偽ものはなくすべて本物です。魚もエビもはね続けて棚から落ち、最近はタコは漁獲漁は減ってぃますが以前は路面を歩き回っていました。連日多くの買い物客で賑わっています。京都や大阪の料亭もこの町の鮮魚店で買い求めるとのことです。 魚の棚ともいわれますかが地元では「うぉんたな」と呼ばれ、親しまれています。久しぶりに昼網のあがる午後1時過ぎに訪れたまご焼を食べタイの刺し身を購入した後、年末大売り出しのための色とりどりの大漁旗や売出しの幟などにレンズを向けました。 NIKON   D600  AF-SNIKKOR35mmf1.8GED

書写山 圓教寺 摩尼殿・大講堂

大講堂のある広場には白砂の広場を囲んで、右(北)に大講堂、正面(西)に食堂、左(南)に常行堂の3棟が「コ」の字形に並ぶ一画は、中世の寺院景観を現在に伝えています。これら3棟を総称して「三之堂」と呼ばれています。 「三之堂」は元徳3年・元弘元年(1331年)の落雷、永享8年(1436年)の火災で焼失し、現存する各堂は室町時代、15世紀半ばの再建である。大講堂に接して、築地塀で囲まれた本多家廟所がある。元徳3年・元弘元年(1331年)の落雷で焼失するまで、本多家廟所の地には五重塔が建っていた。 五重塔を含めたものが本来の伽藍配置であった。塔は再建されなかったが1300年前の面影が伝承されています。 何時訪れても満足しています。今回は腰痛のためほほとんど歩くことが出来なかったのは残念でした、

書写山 円教寺 大講堂 食堂 常行堂

西の比叡山と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇、法皇も多かったと伝えられています。 この付近は、ラストサムライ、軍師官兵衛そして関ヶ原等の映画のロケに使用されています。古式豊かな伽藍は時代劇の舞台として素晴らしい背景です。 。

姫路 書写山 円教寺摩尼殿

 比叡山延暦寺と並び称される書写山の中心です。 この摩尼殿は過去に2度焼失しています。室町時代の延徳四年(1492)、2度目は大正10年、護摩の残り火で焼失しました。 12年の歳月をかけて昭和8年5月8日に再建、落慶法要が催されました。戦乱の世をもくぐり抜けた圓教寺ですが、火事との戦いでもありました。 当時の第138代大樹承算(じょうざん)住職が全てを寄付で賄う為に奔走し、また、図面などが残っておらず、写真と「柱どり」の平面図から再設計を行い、それらに加えて山岳工事となるため、麓から瓦を運び上げるために近隣の村人たちが数枚ずつを背負って運ぶという難工事だったそうです。  設計は武田五一、大工棟梁は伊藤平左衛門である。その豪壮な姿で広く知られており、数少ない大規模な掛け造り建築です。 石段から眺めると84年前に建造されたとは思えない古びた建築物です。 天禄元年(970)創建。本尊は六臂如意輪観世音菩薩で、この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、上人が根のあるままの生木に観音像を刻まれた。そのために岩山の中腹に舞台造りの建物となった。と説明されていました。 何度か訪れていますが紅葉の時期は見事だろうとここからの眺望を楽しみにしています。 清水寺、石山寺そして長谷寺と由緒ある寺の見事な伽藍配置です。

姫路 書写山円教寺

所用があり付近を通過した際に久し振りに書写山円教寺を参詣したのですが国の史跡に指定されている圓教寺の境内は姫路市街の北方およそ8kmに位置する書写山の山上一帯を占め、標高も371 mとそれほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する地でロープウェイで利用したのですが腰痛でこの日はあまり歩くことが出来なかったことは残念なことでした。 書写山への登山道として、東坂、西坂、六角坂、刀出坂、鯰尾坂、置塩坂の6つがあったがあり以前は境内を歩き徒歩で下山したことがありました。今回は摩尼殿と大講堂・食堂・常行堂と狭い範囲のみのんびり歩いたのみでした。

北条五百羅漢寺  羅漢像 続々

笑っているように、悲しみくれているように泣いているようにそして瞑想する人のように人間味あふれる北条の羅漢像として親しまれています。人は真実を探ろうとしますが何も語ってくれません。 羅漢像が祀られ400年近く経過していますが古人の死に臨んだ哀しくも純粋な信仰心が伝わってくるようです。 石像として稚拙で素朴ですがそのために石仏を祀った人から何かを訴えるような石仏が表情が漂ってまます。   NIKON  D3  AF-S   Nikkor 24-70mmf2.8 G ED   

北条 五百羅漢 羅漢寺 続

北条石仏群は何時頃、誰が何のために造ったかは史実も資料も残っていないとのことで永遠の謎となっています。 石仏群には四百年前の慶長年間(1600年)の在銘が一部あり、戦争や飢饉等で無残な死を遂げた人が当時の人々が信仰心から、石仏を造立して霊を追弔供養した儚い思いが込められていると考えられます。 永い風雪にさらされた五百を越える羅漢像と拝していますと哀しく美しく澄んだ信仰心と古人の純粋な思いが一体一体の石仏の表情から供養のために造った人の伝わってくるようです。 戦国時代の戦乱や廃仏毀釈の時代を耐えて奇跡的に護られてきた趣のある貴重な石仏で何時だと感じさせられました。

北栄山羅漢寺 北条五百羅漢 

酒見寺の塔頭だったのですが戦国時代の兵火に焼かれあと御旅町にあった薬師堂を移したと伝えられています。境内には四百数十体の五百羅漢が祭祀されています。 北条の五百羅漢は、大分県耶馬溪山、山梨県吉沢の羅漢とともに全国的に有名な石仏です。素朴にして表情豊かなその姿は必ず親や子に似た顔があるといわれ丹念に拝みつつ観察しつつレンズ向けて撮影したのですが、なるほど人間味溢れる野の佛として親しまれているのは当然だと感じさせられました。 訪れる機会もなかったのですが所用をかねてようやく長年の望みがかなえられました。   NIKON  D3  AF-S   Nikkor 24-70mmf2.8 G ED