スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2021の投稿を表示しています

源平合戦の古戦場 史跡生田森 生田神社   

 神戸の中心部にあり東門街など繁華街に囲まれた神社ですが境内の生田の森に入っていくと幻想的な気持ちになります、樹齢が何百年もなる巨木もが何本かあります。  古くより文人墨客に愛されてきたこの森も、現在では都会の真中のオアシスとして、また、パワースポットとしても親しまれています。  この生田の森ですが、古くは北の六甲山につらなり、南北短く東西に長く、旧生田川、現在のフラワーロードに及ぶ広大な森林だったと言います。 ここで昔、源平合戦や新田氏と足利氏の戦いがあった。戦国時代には織田信長と花隈城主の荒木村重軍との戦いの場になっている。久しぶりに訪れて参拝したさいの画像です。  

満月 中秋の名月

2013年以降8年ぶりの中秋の名月が満月とのことで撮影できた画像です。月の出は18:30とのことでしたが撮影できたのは22時以降でした。自宅のベランダでの撮影でしたので高台での撮影であればと反省しています。  

三ノ宮 夜の繁華街 東門街 

    神戸勤務の際には、下戸であるに関わらずたびたび飲み会に誘われて楽しんだ    こともありますが、その後大坂へ転勤となり神戸を訪れた際に昼間にあるく程度    となりその頃が懐かしく思いつつ歩いています。

萩の寺 京都 称迎寺  

          コロナ禍でさらに異常気象の日々が続き外出も制限されている          現在自己防衛の ため自粛せざるをえないためストック画像からの掲載です。        京都左京区にある迎称寺は萩の寺としても有名で す。               朽ちかけた土塀とその下にに咲く萩を眺めることができる古都の古寺        らしい佇まいに惹かれ何度も訪れています。 

富田林 伝説の歌人 白菊のような人 石上露子

 富田林寺内町は大阪府で唯一つの重要伝統的建造物郡保存地区です。  富田林は、金剛山を東に仰ぎ大和川の支流である千鳥の名所である石川の流れに沿う室町時代の永禄3年(1560年)に往昔は富田ケ芝という草原であったが15代証秀上人が浄土真宗の興正寺別院が起こし近傍の村落を代表する郷士たち(八人衆)開拓に協力し村を起こした。杉山家ははこの草分け八人衆の家系で現存する唯一つの八人衆であった。先祖は美濃国のの落ち武者だとされている。石上露子は杉山家の嫡女杉山孝として1882年(明治15年6月)に生まれた。天性の美貌と気品と聡明で勝気な性格で源氏物語など古典を学び武芸まで身につけていた。当時の富田林は寺内町として付近の米や綿などの農産物の集散地あった。 興正寺                     富田林の街並                     町家と金剛山 杉山家住宅          石上露子が生まれた当時の杉山家は複雑な家族構成の大家族であった。         結婚後一切社会との交流は断たれて長く不幸の結婚生活を余儀なくされた。          四年あまりの創作は、詩一編、短歌80首、美文 5篇だった。この残された         作品は、明治のロマンチシズムの清純な流れを代表た作品として評価されて         いる。作者像は白菊のように柔らかい日本語の調べに凝った文字、哀愁を         限りなく余情をふくんだ純日本的な調べである。          作品には、日露戦争中に読まれた人間尊重の願いを読んだ短歌も残されて         いる。          歌人石上露子を知ったのは、             小板橋             行きずりのわが小板橋             しらしらと             いづこより流れが寄りし             君待つと踏みにし夕べに              いひしれず沁みて匂ひき                          今はとて思ひ痛みて             君が名も捨てむと             なげきつつ夕わたれば             あらうばらあともととめず             小板橋そとりゆらぬく              小板橋は、石川の河原の水の流れてい