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11月, 2019の投稿を表示しています

芦屋の紅葉風景 東芦屋町

自宅近くの邸宅の紅葉です。毎年艶やかな季節の訪れを教えてくれます。近くにも紅葉は見られますが時代の変化なのか落ち葉がどうのと苦情があるのか選定されつづけています。

大阪駅前広場 夜景 2019

会合後の飲み会の後、久しぶりに大阪駅前の夜景を楽しみました。疲れがあったのか手ブレしています。大阪駅前も次第に変化しているようです。 NikonD600 AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED

芦屋の秋 紅葉東芦屋町

自宅近くの個人の邸宅の庭の紅葉です。六甲山麓でもあり毎年楽しみに撮影しています。今年は少し遅かったようです。 NikonD600 AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED

東海道本線 さくら夙川・芦屋間守具橋梁

紅葉の夙川風景だったのですが、残念ながら期待に外れ一週間程度早かったようです。外出してあちこち車窓から眺めても今年の紅葉は随分と遅れているようです。

夙川橋から紅葉の守具橋梁

62レEF210 2077レ EF66 2077レ EF66 夙川散策の際の画像です。紅葉を期待していましたが期待外れの様子でしたが秋の夙川風景をおさめています。 NikonD600 AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED

奈良の古刹 高円山 白毫寺  

関西花の寺の札所ですが訪れる時期を間違っていたようです。椿、萩や寒桜そして紅葉の時期が古都の風情があるようです。境内には不動、弥勒、地蔵などの石仏が点在していることも快い境内だ。さらに西方を望めば奈良市街が望めることもよい。 明治の廃仏毀釈で寺は荒廃したがその後地元の人々の取り組みで復興させたという悲惨な歴史がここにもある。 白毫寺の白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白く細い渦巻き状の毛のことです。

紅葉の夙川風景と火垂るの墓

国道2号線夙川橋 阪神香櫨園駅 香櫨園人道橋 阪神香櫨園駅 香櫨園橋 翠橋 翠橋 葭原橋 葭原橋 浜夙川橋 野坂昭如著「火垂るの墓」の作品の背景を調べています。その際に撮影した画像です。 「火垂るの墓」はアニメそして映画、絵本化にもされて日本はもとより一部の国を除いて世界で広く読まれています。 1945年6月5日神戸大空襲で神戸はほとんど焼き払われ14歳だった野坂昭如は幼い義妹と西宮満池谷町の近くにある親類宅や防空壕で過ごした。西宮も度々の空襲に襲われた6月9日から7月31日まで親類宅にお世話になった実体験に基づいて描かれた作品です。 この作品には、御影、石屋川と一王山そして三ノ宮駅と神戸市も登場していますが、今回は満池谷ニテコ池、夙川が舞台となっている舞台を散策しました。   香櫨園浜(御前の浜) 夙川の河口にあり、干潟として多数の鳥を見かける。かっては関西で有数の海水浴場だった。 作品では 「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただもう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」と満池谷町から出かけてきた。 香櫨園浜(御前の浜)西宮回生病院 香櫨園浜(御前の浜) 西宮回生病院 警報がでたから戻りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、機雷投下のB29が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。  と火垂るの墓に登場している。  2014年10月30日撮影 新築された西宮回生病院 西宮回生病院の正面玄関や診察棟が、建設から約80年が経過し、耐震性や医療設備の問題から、新病棟に建て替えられた。 同病院は1907年に創立。1921年には西洋の城を思わせる赤い屋根の旧病棟が建設された。その

奈良 華厳山 日輪山 新薬師寺

新薬師寺は、天平19年(747年)聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后によって創建された。金堂が現在の本堂の西方150メートルの南寄りにあり堂内には七仏薬師、脇侍りの菩薩二軀ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅60メートル)だったことが最近の調査で判明しています。現在は平安時代の大嵐により崩壊し存在していません。 その他に、壇院、薬師懺悔所、政所院、温室、造仏所、寺園そして東西の塔が存在していた。 聖武天皇が国家仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。国家の安泰と繁栄を祈願するために僧侶が祈願していた。国家機関でもあった。 その一環として創建された寺院でもある。 飛鳥時代以降仏教が、限られた皇族や有力豪族が鎮護国家という形で王権、国家、地域共同体の維持繁栄を祈るための信仰として受容されたものから拡大して個人を救う信仰としても貴族社会全般に浸透した歴史がある。 南門を入って左側に多くの石仏があります。 小屋の中には地蔵菩薩三軀、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面の阿弥陀名号石があります。 一番小さい地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ、脇侍には冥界を司る十王が配されて歴史のある石仏だと感じさせられしばし観察し続けさせられました。 多くの石仏が安置されていますが、広い境内に置かれていた石仏かと考えられます。 NikonD600 AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED

京都の古刹 佛徳山興正寺 続々  iPhonePhotoGraph

三面大黒天 大黒天は七福神の一人で財宝の神様です。右側には福徳の神様である毘沙門天、左側には知恵の神様弁財天の顔と合わせて三つの顔を持ち後利益のある神様とされています。京都の古寺では祀られています。あちこちで面会しています。                梆(ほう)魚鼓とも書く 主に食事の合図に、給仕を行う浄人という係によって鳴らされる。小型のものは木槌で打ち鳴らすが、大型のものは高い位置に釣り下がっているので、長い棒を使って打つ。それほど大きな音は出ず、力まかせに叩くよりもの下から突き上げるようにすると良い。 江戸期に現在の木魚が伝わるまでは、梆のことを「木魚」と呼んでいたといわれ、梆が木魚の原型とする説もある。 魚は寝る時も目を閉じないことから、不眠不休で修行に励む姿の象徴とされ、梆を鳴らすことで修行僧の眠気や怠け心を戒める、という意味が込められている。また、この魚は鯱がモチーフとなり玉を咥える。 中空に浮かぶ魚の姿が目を引く、禅宗独自の法具である。 と、曹洞宗のでは開設されている。 魚板ともいわれるが歴史ある梆(魚鼓)に心打たれ撮影しました。       庫裏 禅宗寺院にある寺内の食事をつくる場所。台所のことです。  テレビ番組で見た光景を思い出しました。かまどのある質素な作りでした。 庭園風景 境内は広く、祠堂堂、天竺堂、開山堂と僧堂と少し時間をかけて参詣することができました。 琴坂 坂の両脇を流れる水のせせらぎが琴の音のように聞こえたことが由縁だとされています。刈り込みされています新緑と紅葉の美しい坂です。 NikonD600 AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED