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投稿

8月, 2007の投稿を表示しています

隧道風景

中央西線の野尻駅附近のトンネル風景です。30数年前信州旅行の際、曲線の多い線路と連続する断面の小さいトンネルを最後部から撮影しています。

皿型側溝

昭和13年の阪神大水害後69年が経過していますが、いまなお崩壊することなく自然と調和し役割を果たしています。 土砂に埋まる堰堤でなく、石垣を積み樹木も繁らせ治山治水としての目標のみをしっかり見つめその役割を果たす知恵ある遺構が六甲山中に残されています。

Field Photo Note 1960

新穂高温泉から西穂小屋を経由し奥穂高へ向かう途中の独標附近から撮影しています。 この頃の山行はなぜか雨天が多く撮影枚数は少ないようです。

芦屋ロックガーデン地獄谷

小滝を登り続けるとロックフェンスと名づけられた岩場の前に根性岩と呼ばれる岩があります。 木漏れ日が斑のように見え角度により犬か熊のように見えます。六甲山には岩に動物の名が付けられた岩があちこちにあり登山者を楽しませてくれます。

芦屋ロックガーデン地獄谷

夏は涼をもとめてこの谷をよく歩きます。水流のある滝に取り付き水を浴びれば快適なひとときです。ときおり腕をひたして休むことも可能です。 滝をとおり通過し尾根に登れば42.3度もあり手で触れれば熱さに堪え難いかと思われる崩壊しやすい岩場がまっています。 大小十数ヶ所の滝がありますが地獄谷にたった一つ名称が付けられているるのが「小便の滝」です。 ここで分岐しA懸・B懸尾根へと向かいます。 堰堤を巻いて源流部へ入れば風吹岩跡へ登ることもできます。

海岸通り

車で通り過ぎるが久し振りに神戸外国人居留地跡のある街を散策しました。阪神大震災にも耐えて品格と風格のあるレトロなビルが都市の乱開発にも耐えて残っています。

木ノ芽峠番所茶屋

天長7年(830年)に開かれた北陸道で以後、鉄道が開通する1896年(明治29年)まで、およそ1100年間畿内と北陸を結ぶ官道として歴史に登場する数多くの人々が行き来しました。一乗寺朝倉氏、加賀の国の繁栄も京都からこの峠を越えて運ばれました。 藁葺きの建物は築450年とされ1466年(文正元年)に前川家が開居され、1601年(慶長6年)結城中納言秀康の客分として明治まで木の芽峠の一帯の警備の任に当たりました。 現在20代目の前川氏がこの家屋を守っておられます。

横尾風景

撮影を目的として夜行列車で松本まで乗車し上高地から横尾経由で涸沢へ向かう途中の明神岳の風景です。ネガからスキャンしていますが、すでに40年が経過しても、風景はそれほど変わっていないでしょう。涸沢へは夏、秋そして初冬と訪れたが天候には恵まれなかったことが残念です。

芦屋ロックガーデン地獄谷

この渓谷の夏は歩くというよりも岩を登っているのだか楽しい一時があります。水流が激しい日にはシャツもズボンも濡れるが腕にかかる水の冷たさに快さがさえ感じています。 だが油断できない滑落するおそれもありしつかりホールドし確実に滝を直登しなければなりません。 夏に限りませんが、撮影を思い立つとどうしても海辺へ向かわず山へ入ってしまうのも人のあまり歩かない都会の片隅にも自然の豊かさのある街に住んでいるせいなのかと思っています。

芦屋ロックガーデン地獄谷

地獄谷に5〜8mの滝が連続する沢筋にある滝でそれぞれ特徴があり直登するのは楽しい。逆層の岩や滑が連なるが岩がゴロゴロしているが足場はしつかりしています。 夏に水流があれば、しぶきを浴びることもありこの上もなく快適な沢歩きが楽しめます。指導標もなく歩き慣れた人が歩く登山路です。 大小10数か所の滝を登りつめると小便の滝と名づけられた滝がある。 全景は陰影が激しく撮影できないのが残念です。

梅田北ヤード

大阪駅改築後には見られない風景です。日々光景が変わっています。

芦屋景観

芦屋の風景に必ずといってほど取上げられる教会です。この宗教のたどってきた歴史を見つめ考え、文学作品の描写から聖書を読み考えれば複雑な思いをさせられています。

志賀直哉旧居

1925年から10年を過ごした奈良市の旧居で多くの文人が集まったサロンです。 以前に何作か作品を読んだが評論家が絶賛するのか不思議な思いをさせられた。視野が狭いのではないかと作者の考えについていけない思いをさせられことを訪れ思いだしました。

C懸

コースから外れほとんど歩く人はいない。猪の通り道をブッシュをこぎながら歩くが面白くない。

祈り

62年目の夏が訪れました。 決して風化させてはならない多くの人々の慰霊と祈りの場です。 40数年前の画像ですがその思いは今までも決して失せることはありません。