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6月, 2019の投稿を表示しています

奈良多武峰 談山神社 新緑の十三重塔

十三重塔は、父藤原鎌足の追福のために長男定慧と次男不比等によって西暦678年に建立された、現在の塔は亭禄5年(1532)に大修理が行われています。 木造十三重塔としては世界唯一のもので神仏習合時代のものである。 屋根は伝統的な檜皮葺です。なだらかな線を持った屋根は他に類がない。高さは17メートルあります。 杉の巨木を背景に十三重塔は談山神社の象徴として優美な塔は四季を問わず参拝する人を迎えてくれます。私も飽きずアングルを変えてレンズを向けました。 NikonD600    NIKKOR AF-S24-70mm1:2.8GED

多武峰 新緑と談山神社 本殿と拝殿 談山神社の由緒 乙巳の変

 三間社隅木入春日造の絢爛豪華な様式で知られ、社殿は全体は極彩色模様や花鳥などの彫刻によって装飾されています。藤原鎌足をお祭りするため大宝元年(701)に創建されました。現在の本堂は嘉永3年(1856)建て替えられています。日光東照宮のモデルとなった社です。 参拝してこれほど鮮やかな極彩色の社殿だったかと思いつつ背景の新緑に浮かぶ社殿をしばし座して日本の原風景にしば眺めさせられました。明治2年(1869年)に神仏分離令により僧徒が還俗。現社号に改称され、別格官幣社に列した。しかし仏教建築は現代も当社境内に見ることができるのは、明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているためである。 拝殿の回廊には春日神社と同じように 新緑の背景に溶け込むようにして数多くの形の素晴らしい釣灯籠が懸けられています。この拝殿は、1668年(寛文8年)の再建ですが回廊の釣灯籠は創建当時のものである。 回廊の下には石灯籠が建てられ歴史を感じさせられました。 この本殿の背後の山に裏山を10分ほど登った場所に談山(566メートル)(かたらいやま)がある。社名の由来となった。木立に囲まれた一角で日本書紀皇極天皇紀にあるように中大兄皇子と中臣鎌足が密談した場所である。  飛鳥法興寺(現在の飛鳥寺)で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天武天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が西暦645年の5月に多武峰の山中に登り乙巳の変の談合をした。談山神社から法興寺まで約7キロメートルでこの時代ではそれほど遠距離でもないようです。  多武峰縁起によれは、中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(蘇我入鹿)の暴虐をいかにせん。願はくは奇策を陳べよ。と中臣連皇子を將て城東の倉橋山の峰に登り藤の花の下に撥乱反正の講を談ず。と記されています。  この談合により皇極天皇4年(645)飛鳥板葺宮で蘇我入鹿を討ち中央統一国家と古代政治の完成という歴史的な出来事となった。  多武峰は乙巳の変(大化の改新はこの語に乙巳の変から名称が変更されている。)後に談峰、談山そして談所呼ばれるようになり社号が談山神社となった NikonD600    NIKKOR AF-S24-70mm1:2.8GED

奈良多武峰 新緑の談山神社

社名は藤原鎌足が中大兄皇子と蘇我入鹿を暗殺するために談合をした「談い山」からとったものである。 もとは聖雲院、大織冠社、多武峰社と称した。 多武峰の山中には楼門(重要文化財)、本殿(重要文化財)、権殿(重要文化財)をはじめとする朱塗りの華麗な社殿が建ち並ぶ。漆塗極彩色、三間社春日造の本殿には鎌足像が祀られており、日光東照宮の手本になったといわれている。紅葉の名所としても有名であるが、境内を桜が彩る春、新緑の季節、雪化粧が見事な冬と季節を問わず歴史ある社殿と風景を楽しむことができる。 本殿への階段は途中まで歩くことができますが、途中から通行禁止でしたが、階段と新緑のと朱塗りの本殿は奈良の奥山でしか眺める事ができない美しい取り合わせでした。 権殿 神廟拝所 権殿 十三重塔 藤原鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、鎌足の長男定慧が木造十三重塔(重要文化財)を建てたことに始まる。弟の藤原不比等が神殿を建立し、父の像を安置したとされる。明治初めの神仏分離令後、神社だけが残った。現在の塔は室町再建で高さ17m。古塔の中では現存唯一の遺構である木造十三重は、鎌足の墓塔といわれている。

芦屋鉄道紀行 TWILIGHT EXPRESS瑞風山陽下りコース

曇り空ですが散策の際に偶然、撮影できたTWILIGHT EXPRESS瑞風山陽下りコースの列車です。曇り空で鮮明でないのが残念ですが。 大阪駅や駅間で見かけることがあったのですが自宅近くでははじめての撮影です。コースも多く通過時間を調べてみて撮影したいものです。

芦屋の野鳥 カイツブリ 

久しぶりの仲の池での野鳥撮影です。  のどかな風景ですが、以前池ざらいされていた際に、この池も日本にあるあちこちの池と同じようにブラックバス、ブルーギル等の外来種の魚が放流もそしてバイクや自転車や家電製品が放棄されていた。悲しいかな住宅地にある溜池の宿命だろうか?  カイツブリは足には各指にみずかきがあり、潜水は大得意で、足だけで泳ぎます。小魚、ザリガニ、エビ類、大きな水生昆虫などを食べています。日本では全国に分布しています。全長26cmとのことですが少し遠かったようです。  水ぬるむ春、池や沼や湖で、そこに浮いていたかと思うとアッという間にもぐってしまい、あちらの方でポッカリ浮かびあがる潜水の名手です。撮影中も一羽が突然水にもぐりこんでしまったまで待ち続けさせらました。  琵琶湖の古名は「鳰(にお)の海」で、鳰とはカイツブリの古名です。昔から知られていたようです。

阪急甲陽園線 学校前踏切と甲山

夙川駅近くなると6000系と甲山を背景に撮影を楽しむことができます。桜の時期にも訪れてはいますが紫陽花の時期も満足させられました。

大阪橋巡り  堂島大橋

大阪市によると堂島川にかかる堂島大橋は、昭和2年(1927年)に建設され、約90年が経ち、損傷(老朽化)が目立つようになりました。そこで損傷部分を補修するとともに、今後も長期間に渡り使用できるようにするための改良工事(長寿命化対策)を実施しています。アーチ部や橋台部は残し、床や床組を取り替えます。また、橋下空間を今よりも高くし、船の航行をしやすくします。令和2年1月末には完成するとのことです。両端の下部工は鉄筋コンクリート アーチ型ラーメン構造。中央部上部工は鉄骨 下路2ヒンジ ソリッドリブアーチ。橋長76.12m、幅22.56m。中央部の径間は54.86m。1927年(昭和2年)9月に現在の橋に架け替えられた。施工は日立造船。このあたりの地盤が軟弱だったため、基礎工事では25mまで掘削し900本の基礎杭を打設する難工事であった。とされています。アーチ型の橋梁でオフィスビルを背景に撮影はしばらく望めそうもありません。

大阪橋巡り 土佐堀橋

土佐堀橋は、大阪市のあみだ池筋の土佐堀川(旧淀川)に架かる橋で鋼床版桁橋。橋58.4、幅21.95m。架橋は大正10年(1921年)に市電桜川中之島線敷設のため最初の橋が架設された。昭和44年(1969年)に改築されいいます。古い石造りの河川銘が設置されています。小説の舞台としても登場している川の橋です。 薩摩藩の蔵屋敷等が立ち並び大坂商圏の一角を占めていた場所ですが現在もオフィスピルが最近流行りの高層マンションが建造されている活気のある場所です。

芦屋鉄道紀行 打出村踏切 続

定点撮影です。晴天に誘われて散策の際の画像ですが、遅れがあり予想しない時刻に通過していきました。快速も新快速も遅延していましたのでこの日は撮影はあきらめて切り上げました。

阪急甲陽線 久出川踏切

夙川の紫陽花撮影の帰途、苦楽園口駅から夙川駅まで線路沿いを散策しつつ撮影を楽しんだ画像です。単線区間ですが上下列車が10分間隔で運転されるのでシャッターチャンスは多くこの踏切からは甲山が背景となります。