2022年5月14日

北陸道 木ノ芽峠界隈

木ノ芽峠茶屋
永平寺を開いた道元禅師は、病気治療のために京の都に向かう途中、この峠に立って永平寺を思いながら歌を読んでいます。峠には、その時詠んだ歌の石碑が残っています。
道元禅師の歌碑の裏手には歩くことができなかった鉢伏城と観音丸砦の城跡があります。

北陸隧道工事安全祈願碑



峠の茶屋には羽柴秀吉から拝領した釜をもつ茅葺き屋根の前川茶屋です。林道を通りこの茶屋には五度ほど訪問して主の前川永運さんと親しくさせて頂きました。
頂いた名刺には、前川家は桓武平氏の後胤と教えて頂きいつも美味しいお茶を頂きました。
 前川茶屋の裏手には木の芽城と西光寺丸の城跡があり、
 500年前の文正元年(1466)当山に開居し士族として国境の関所としての責任者だった。とのことです。
言奈地蔵

 木ノ芽峠越えは、平安時代の初めの「天長7年(830)」に開かれ、その後、明治初期まで1.000年以上にわたり、敦賀と福井方面を結ぶ幹線として使われた歴史的古道である。                        標高630mの木ノ芽峠は、福井県を南北(嶺北・嶺南)に分ける境である。         平安時代、紫式部が、父・藤原為時の越前国司下向に随って越えたのはこの道と考えられる。鎌倉時代以降、永平寺開山の道元禅師や、親鸞、蓮如などの僧侶が往来した。南北朝時代には新田義貞率いる将兵が雪中の木ノ芽峠越えで凍死したと伝え、戦国時代には朝倉氏や一向一揆勢と織田・豊臣軍との戦いの舞台となった。江戸時代には「おくの細道」の旅で芭蕉がここを通って敦賀に入り、幕末には水戸浪士一行が雪の木ノ芽峠を越え、新保に着陣した。明治20年(1887)、敦賀・武生間の車道開通、同29年、敦賀・福井間の鉄道開通により、木ノ芽峠越えはその役割を終えています。
  福井県は敦賀市と今庄町の問に横たわる木ノ芽山地を境にして、嶺南 、嶺北という二つの地方に区分される。木ノ芽山地は それほど高くはないものの、海岸まで、迫っているため、古来の交通をさえぎる交通の難所として知られてきた。昔から、山地をいかに越えるかは、北陸の地を行き交う人々にとって大きな問題であり、嶺南と嶺北とを結ぶ交通路には、古代から現代にいたるまで幾度もの変選があった。 
   第26代継体天皇(在位507年3月から531年3月)は近江国高島郷で誕生し垂仁天皇の孫振姫とともに越前国丸岡に帰郷した際にも古道を利用したとの記録もある。古代の交通路は奈良、平安時代には、都から地方へと向かう駅路が整備された。
  この地域には北陸道が通じており、当初、陸道は敦賀市元比田から標高89㍍の山中峠を越えて今庄町大桐に至り、鹿蒜川沿いに谷を下った。敦賀平野から元比田までのルート は、山脚が迫る海岸部はできるだけ避け、敦賀市道ノ口から樫曲、越坂、回尻の内陸部を経由し、ウツロキ峠を越えて海岸の五幡に至ったものと考えられる 。                                                                         
    このルート上にある五幡と鹿蒜川の流域一帯は、大伴家持の作歌「帰廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れ吾をし思はば (万葉集)をはじめ多くの古歌にあらわれる歌枕の地であり 「何時はた帰る」に掛けて詠み込まれた 。これらの地はいよいよ山越えの難所にさしかかろうという場所であり、北陸道を行き来する往時の旅人の心を強くとらえたのであろう。


「板取宿の由来」

 掲示板には、戦国時代までの越前への陸路は山中峠を越える古道(万葉道)と木の芽峠を越える北陸道(西近江路)だけであった。                            柴田勝家が北の荘に封じられ信長の居城安土に赴く最短路として、天正6年(1578年)、栃ノ木峠の大改修を行って以来、人馬の往来は頻繁となり、越前南端の重要な関門の地として板取宿を置き、宿馬30頭、人足60人が常備された。                     板取宿は北国街道(東近江路)の玄関口として、あるいは近江・越前・両国を結ぶ要の宿として発達したのである。江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。後に板取番所として、藩士が駐在した。                      板取には幕末の頃、戸数53戸・うち3軒の問屋をはじめ、7軒の旅籠、3軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わったという。今も甲造り型や、妻入り型の茅葺の民家が昔のまま保存されているが無人で静かな山村風景が味わえる。




その後、訪れる機会はないが相当荒れ果ててこまような光景は望めないようだ。






 

2022年5月4日

散策の際に見つけたバラ





バラもコロナウィルスのせいか勢いがいつもなら見頃でしたがこの日は期待はずれでしたが艶やか花を探して数枚撮影できました。

 

2022年4月28日

新緑の叡山鐵道 市原・二ノ瀬間





新緑の時期の叡山電鉄市原・二ノ瀬間の前頭展望ん画像です。    以前は四季を問わず訪れてはいました。これだけ感染力の      強いコロナ・ウィルスが蔓延するとは想像もできず自粛しています。

 

2022年4月25日

乙訓寺 牡丹の花








万葉集には牡丹を詠った歌ははまだ載っていないが、平安時代に登場している。 庭に咲く紅色の牡丹が見事に咲いている。   
牡丹の花に添えるように、青々としたあの大空さえもが地に平伏したように見える。意外と詠まれた歌は少ない。花言葉は「王者の風格」である、その理由もよく分かる。
枕草子には「台の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきことなど、のたまう」とある。与謝野晶子は「牡丹ちる日も夜も琴をかきなら遊ぶわが世の果つるごとくに」と詠っている。   


2022年4月8日

芦屋神社 コバノミツバツツジ






         自宅近くの神社ですが、調査しても創始は不詳です。
        天穂日命が高天原より降臨された磐座が六甲山頂に現存することや、
        境内に横穴式石室古墳があることなどから推察して、約千四百年前
        にはすでに六甲山を聖地として崇める豪族が芦屋の地にあり、
        山の神を遥拝する施設としてこの里宮を建立したのではないかと
        考えられています。西宮神社、廣田神社、保久良神社と阪神間
        の数多くの神社が建立されていますので、六甲山の山頂付近の
        磐座との関わりのある神社が多くこの付近の古い歴史を偲ぶ事ができます。








 

2022年4月5日

龍安寺 石庭と桜




龍安寺 石庭と桜
枯山水の石庭「方丈庭園」は、、世界的にも「ロックガーデン」の名で有名だ。石庭の塀の向こうからのぞくしだれ桜をはじめ、桜は種類によって微妙に咲く時期が異なるため、長期間にわたり楽しむことができる。京の古刹です

 

2022年3月30日

嵯峨野 愛宕鐵道廃線跡


愛宕鐵道清滝隧道

                  電柱跡

         鳥居本駅跡 嵯峨野あゆ茶屋平野屋のそばに駅が設置されていました
清滝駅跡
     清滝駅跡、現代はバスターミナルとなっています。

嵐電嵐山駅から清滝駅まで昭和4年3.339kmの路線が敷設され多くの観光客で賑わっていましたが、昭和19年に廃線となりました。            その頃、関西地方と北陸地方の付近の鐵道建設の歴史とその後の廃線跡の記録万葉集に登場する畿内と越の国間の諸街道も訪問を車で走行し撮影していました。

 この画像は10年近く前に撮影していますが、府道137号線にそって歩き遺多くの構を発見しました。 清滝駅跡、清滝隧道、鳥居本駅階段跡、電柱の痕跡、清滝跡のレールとその一部を掲載します。 


2022年3月27日

芦屋鐵道紀行 さくら夙川・芦屋間





散策の際の撮影です。天候かせよければ立ち寄ることとしています。 ダイヤ改正があり時刻変動しているようです。

2022年3月19日

如月の嵯峨野散策





 嵯峨野散策の画像です。静かな歴史の道を心穏やかに歩くことが時間のきろくです。

2022年3月16日

JR福知山線 武庫川廃線跡 JR生瀬駅・JR武田尾駅間




かってはこのように蒸気機関車が走行していました。
1986年に生瀬・道場間の新線開通により配線となった武庫川廃線跡です。
ハイキングコースとして親しまれてはいますが、国鉄時代の枕木の残る道床跡、橋梁そして隧道となど諸設備が約7Kmにわたりそのまま保存されていますのでトンネルには照明もなく観光案内の注意事項を参考にして歩きやすい靴とランプ等持参して歩けば楽しい行程となります。桜や新緑そして紅葉の雪の時期に過去3・4度歩いていますが楽しい行程となります。

2022年3月14日

芦屋鉄道紀行 芦屋・甲南山手間第3跨線橋



跨線橋歩道の金網の隙間からの撮影です。221系車両が阪神間から他線区に転用されるとのことで可能な限り機会を見つけて撮影しています。公開したのですが昨日バクが見つかり設定し直し確認し修正され終了したのですが、古いバソコンでもあり削除されていました。多くの人に閲覧して頂いていましたので再掲しました。