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1月, 2008の投稿を表示しています

甲山88箇所石仏巡礼第71番

剣五山千手院弥谷寺 本尊 千手観音菩薩 香川県三豊郡三野町 天平年間(729~748)に、弥谷山(382m)の南腹に聖武天皇の勅願により行基が開基し、県の史跡に指定されている歴史ある寺弥谷寺がある。 弘法大師が大同2年(807年)に入山し、修業していると天から五本の剣が降ってきたという。ことにより山号を蓮華山から剣五山に改号し寺名も弥谷寺に改号されたという。

甲山88箇所石仏巡礼第3番

亀光山釈迦堂金水寺 本尊釈迦如来 徳島県板野郡板野町 寺伝によりますと天平年間(729~749)に、聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み開基し、当時は金泉明寺と号されていたという。 その後、弘法大師が四国霊場巡錫中に来錫し、水不足に悩む地元の人々のために井戸を掘り湧き出たため、大師は 堂宇を建立し金泉寺と改めた。 山号の亀光山は、亀山法皇(1249~1305)が勅願所とし、堂塔の再興や三十三間堂などを建立したことに由来しています。

甲山88箇所石仏巡礼第77番道隆寺

四国八十八箇所霊場の第七十七番札所。 道隆寺(どうりゅうじ)は、香川県多度津町にある真言宗醍醐派大本山の寺院。詳しくは桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)と号する。 本尊は薬師如来。 天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、当地の領主である和気道隆が乳母を誤って射殺してしまったため、これを悲しんで桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。

甲山88箇所石仏巡礼第87番

補陀落山観音院長尾寺 本尊 聖観音菩薩 香川県さぬき市 縁起は、聖徳太子の開創と伝えられ、天平12年(740年)に僧行基が霊夢により柳の木で本尊を刻み安置したという。その後、弘法大師が年頭七夜の護摩秘法を修し、国家安泰・五穀豊穣を祈願した。と伝えられています。

登山靴

30数年前に購入したドロミテの登山靴です。たしか当時の月収では購入出来ない価格でして。この靴で3足目でしたが、その後山に入る回数は減りましたが歩き続け手入れはかかしませんでした。そのためリタイア後も続けて履き続け楽しめました。現在の靴の重さはこの靴1足にも及ばない重さです。そして今では作れない靴です。この重さのある靴は安定した歩みを確保でき岳人には人気のある靴でした。 まだ履けそうですがインナーが皮革のため疲労し破けて歩けば靴擦れが酷くなりとうとう山歩きから引退させることにしました。手入れをして保管することにしました。 重いが疲れも少なく厳寒にも暑さにも耐え頼もしい強い優しい長い山の友でした。

甲山88箇所石仏巡礼第18番

徳島県小松島市 母養山宝樹院恩山寺 本尊薬師如来 縁起によると聖武天皇の勅願により、行基が本尊の薬師如来を厄除けのために刻み安置し大日山福生院密厳寺を開基しました。また女人禁制の寺でした。 その後百有余年を経て、弘法大師が修行中、母の玉依御前が訪ねたが女人禁制のため会うことができなかった。大師が秘法を修し女人開禁の修行を行い大師は母を寺に招き入れたとされています。その後大師の母は出家し寺名は母養山宝樹院恩山寺と改められました。

りんご

ケーブルが必要となり久し振りに訪れました。相変わらず人気がある店です。

田中千代

日本の初めてのファッション・デザイナー、服飾教育家、服飾研究家として、生涯にわたり服飾の分野に過ごす原動力になった服飾専門学校の跡地です。昭和7年(1935年)に設立され阪神大震災(1995年)で被害を受けるとともに死後跡地は売却されました。 Ohara-cho Ashiya

口縄坂

大阪の上町台地の坂です。口縄とは蛇のことであり、坂の下から眺めると、蛇(くちなわ)に似ているということから、この名が付けられたといいます。 また、大阪城築城の際、縄打ちを始めた地であった。という説もあります。

フロアー広告

フィルムプリントの精細さに驚かされるのか最近のIT技術です。写しとるのが難しいようです。

冬の京

冬の静かな渡月橋です。

嵐山

冬の京都の風情は静寂が楽しいひとときがあります。

甲山88箇所石仏巡礼第1番

昔の四国までの交通手段は徒歩と船しかなく、一般庶民にとってお遍路さんの道程はとても遠いものでした。そこで、誰でもが四国巡礼を体験できるようにと、神呪寺蓮眼慈孟大和尚が寛政10年(1798年)に四国八十八ヶ所の各札所の砂を持ち帰り、それらを神呪寺境内の南部に祀るとともに、霊山寺から大窪寺までのご本尊の石仏を祀り「甲山八十八ヶ所」が建立された。と神呪寺のホームページに記載されています。 甲山八十八ヶ所を一巡する全行程は約2キロメートル(四国遍路の約563分の1)。その巡礼道も今ではアスファルトの車道に寸断され石仏自体も随分と風化してきていますが木立のつななる山の道はそのために深みがあり多くの方がいまなお訪れています。 第1番札所には大坂籠屋町彦六によって建立された「寛政十二年」と刻まれた百八十八供養塔、天保年間の年号の石の水槽が残されるなど、かつての隆盛を偲ぶことができます。 第一番札所は竺和山一乗院霊山寺です。本尊は釈迦如来です。 天平年間(729〜748年)に聖武天皇の勅願により僧行基が開基したと伝えられています。行基は菩薩と尊称され1400箇所もの寺院を創建したと伝えられています。 弘法大師が人々が持つ88の煩悩を滅却させることを願い、四国に88箇所の霊場開創を決意し21日間の厳しい修業を行なった時、数多くの菩薩が釈迦如来が説法を聞いている光景を感じ竺和山霊山寺として第1番札所に定めた。とされています。

甲山88箇所石仏の道

雑木林の中に巨岩の上にあるいは背にして岩に囲まれ祀られた石仏と巡礼道が、阪神間の駅からわずか30分ほどの甲山山麓に225年前の江戸時代に建立されています。 その後は修業や祈願の道として多くの方が歩かれています。 四季の風景を眺めながら歩くことは楽しいものです。

落柿舎

近くに所要があり久し振りに嵯峨野を散策しました。冬の京都も人は多いようです。

踏切

竹薮に囲まれた野々宮踏切です。

分かれ道

復興の碑

阪神淡路大震災やがて風化してしまうのでしょうか。忘れてはならないことが多くありますことを思いだして頂きたいものです。

とんど祭

とんど祭りは今年1年の健康と、地域の安泰とを祭る祭りです。とんどの灰や煙は様々な災いを祓い清めると信仰されています。 しかし最近は、餅、だいだいそして柿などの食べられるものをビニール製品など燃やしてはいけないものの区別も理解出来ないのか、捨てないで下さいと注意が張り紙されていた。 それでも老若問わずわきまえずして捨てる姿が見受けられるのは、現在人の心の未熟さだろうか。 Higashiashiya-cho Ashiya

狛犬

神社の社殿に置かれる一対の獅子に似た獣の像で魔よけのためで中国文化の影響だとされています。 Kigashiashiya-cho Ashiya

親王塚

市内を散策しています。阿呆親王の名のもとに宮内庁管轄とあり4世紀後半の古墳跡であってもそれがため業者に乱開発されずして貴重な緑が残っているのはいいものです。 銅鏡も出土しています。 Midorigaoka-cho Ashiya

朝の駅前風景

見慣れたこの風景もやがて変わることでしょう。 Umeda Osaka

街角の美術館

CSでレタッチし絵画風に仕上げています。 Asahigaoka-cho Ashiya

刻印石

第二次世界大戦敗戦2箇月前に米軍の空爆によりここに建てられた家屋は焼失しゴッホの「向日葵」も灰燼となった邸宅跡に残されている刻印石です。 Kasuga-cho Ashiya

城山冬景

空のヌケがあれば撮影と思ってもそうそう機会があるものでなく仕方なくレンズをむけなければならない。 Yamate-cho Ashiya

電車の見える風景

この道路は交通量が多くそして開業以来の鉄橋だと言われています。 Matsunouchi-cho Ashiya

温暖化現象

松の内に入っても柿は落ちずに残っているのは異常な状況です。 Ohara-cho Ashiya

金津山古墳

5世紀に築造された長さ55mの前方部を持つ帆立貝形古墳であるとされています。打出の海浜部にあり海上交通の豪族が埋葬されたとされています。 周りは民家や駐車場に取り囲まれその面影はあません。 Kasuga-cho Ashiya