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アンネのバラ

西宮の甲山の麓近くの丘の上にアンネのバラの教会があります。 道に迷いずっと以前車をとめて立ち寄ったことがありました。火垂るの墓誕生の地の記念碑建立に参画しアンネのバラを思い出しました。 そして最近、アンネの日記を再読しています。アンネのバラの教会の秋咲のアンネのバラを見るために訪れました。「アンネの庭」一面に咲く黄金色のバラは、アンネを偲んでベルギーで作出された四季咲きの香り高いバラです。「アンネの形見のバラ」(Souvenir d'Anne Frank 1960  Delforge)と呼ばれ、フランク氏の庭でも大切に育てられていました。1972年のクリスマスにフランク氏より友情のしるしとして聖イエス会に贈られて来ました。と説明がありました。 アンネ・フランクが幼い命を閉じて75年アンネの思いはこのバラに込められているとの思いで秋の日差しをあびて考えさせられました。  

小説火垂るの墓誕生の地 文学碑とアンネのバラ

火垂るの墓誕生の地の記念碑は6月に除幕式が施行されました。昨年8月から火垂るの墓誕生の地記念碑の建立に参画し10年近く前までホームページを立ち上げていましたがその後休止していましたが再び火垂るの墓記念碑の募金活動に参画し文学散歩や野坂昭如の文学論や作品の魅力等の原稿を作成しWEBにアップしました。 当初寄付金募集について低調でしたが地道な運動を継続した結果、1500名近くの団体や個人の多くの方の800万円の基金が寄せられて令和2年6月7日に文学碑が建立されました。払込取扱票通信欄より寄せられたメッセージの一部を紹介させて頂きますと、 「海外にいると平和の大切さが強く思われます。この記念碑は、様々な苦痛を生み出す戦争という愚かな人災を二度と起こさぬよう皆が心に留めおく大切な道しるべだと思います。建立にご協力下さった皆様に厚くお礼申し上げます。女性」、「段々と薄れていく今、貴重な歴史を後世に残してください。男性」、「この映画を観たとき、他人事とは思えない気持ちで見ました。私たちもあの空襲のとき逃げ惑いました。いつ、野坂少年になっていたかも知れません。ご苦労様です。多少ですがお使いくださいませ。女性」と平和を願う方々から数多くの声を頂いていいます。  文学碑の台座は、本を二冊重ねたデザインで丹波篠山さんの鉄平石が敷き詰められ、副碑として野坂昭如の略歴、野坂昭如の戦争体験の陶板画が設置されています。  主碑は、公園と近くの石材店から提供された今では二度と手に入らない六甲山系産の50年前にてないれた谷本さん貴重な御影石「さくら御影」が使用されています。   文学碑主碑の陶板画です。作品ではニテコ池下池の畔で洗濯をし水浴びをして過ごしたと描かれています。 主碑の背面には、 野坂昭如著「火垂るの墓」その舞台となったこの地に、戦後875年を経て、なお戦争の悲惨さを語り継ぎ、現在と未来の子供たちへの恒久平和を祈念します。                       2020(令和2)年6月7日建立                            火垂るの墓記念碑建碑実行委員会 と刻まれています。 この記念碑は、阪急甲陽線苦楽園口駅から徒歩約10分です。西宮震災記念公園の一角にあります。是非御出でください。 副碑陶板画 野坂昭如略歴 野坂昭如 1930.10.10〜2015.12...

露天神 曾根崎心中 近松門左衛門 

元禄16年(1703年)4月7日、醤油屋平野屋の手代・徳兵衛と天満屋の遊女・おはつが、大坂・曽根崎の天神の森で心中した。近松は直ぐにこの事件を浄瑠璃とし近松最初の世話ものとして誕生した。上演は事件の一ヶ月後であった。   道行きの名文として知られる曾根崎心中の原文とともに現在にのころ文学周遊の道行きを歩いた。 近松門左衛門は、 フシ 此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬たとふれば。 スヱテ あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそ フシ あはれなれ。 ワキ あれ数かぞふれば暁の。七つの時が六つなりて残る一つが今生の。鐘の響ひゞきの聞納。太夫寂滅為楽二人 ハル と響ひゞくなり。 鐘斗かは。草も木も空もなごりと見上ぐれば。雲くも心なき水のおと北斗はさえて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも。我とそなたは女夫星。 地必ず添ふと縋すがり寄り。二人が中に降る涙  フシ 川の水嵩もまさるべし。 フシ 向ふの二階は。何屋とも。おぼつか情なさけ最中にて。まだ寝ねぬ火影声高く。 ヲドリ 今年の心中よしあしの。言の葉草や。茂るらん。太夫地聞くに心もくれはどりあやなや昨日今日までも。余所に言ひしが明日よりは 我も噂の数に入り。世に歌はれん歌はば歌へ  フシ 歌ふを聞けば。 「歌二人どうで女房にや持ちやさんすまい。いらぬものぢやと思へども」。   太夫地げに思へども歎けども身も世も思ふまゝならず。いつを今日とて今日が日まで。心の伸びし夜半よはもなく。 思はぬ色に苦しみに。 「 歌 どうした事の縁じややら。忘るゝひまはないわいな 引 。」 それに振捨て行かふとは。やりやしませぬぞ手にかけて。殺しておいて行かんせな 引 。放ちはやらじと泣きければ」。 太夫地歌も多きにあの歌を。時こそあれ今宵しも。 ワキ うたふは誰たそや聞くはわれ。二人過ぎにし人もわれわれも。一つ思ひと縋すがりつき  スヱテ 声も惜まず泣きゐたり。 いつはさもあれ此の夜半。せめてしばしは長からで心も夏の夜の習ひ命を追はゆる鳥の声こゑ明けなば憂しや天神の。森で死なんと手を引きて オクリ 梅田 〽堤の小夜烏 フシ 明日はわが身を。餌食ぞや。太夫誠に今年はこな様も廿五歳の厄の年。私も十九の厄年とて。思ひ合ふたる厄祟り縁の深さの フシ 印...

文学周遊 堺 与謝野晶子  君死にたまふことなかれ 

 情熱的な作品が多いと評される歌「みだれ髪」や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やわ肌の晶子」と呼ばれた。            君死にたまふことなかれ         ああ、弟よ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ。 末(すゑ)に生れし君なれば  親のなさけは勝(まさ)りしも、 親は刄(やいば)をにぎらせて 人を殺せと教へしや、 人を殺して死ねよとて  廿四(にじふし)までを育てしや。 堺の街のあきびとの 老舗(しにせ)を誇るあるじにて、 親の名を継ぐ君なれば、 君死にたまふことなかれ。 旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事(なにごと)ぞ、       君は知らじな、あきびとの 家の習ひに無きことを。   君死にたまふことなかれ。 すめらみことは、戦ひに おほみづからは出(い)でまさね、 互(かたみ)に人の血を流し、 獣(けもの)の道に死ねよとは、 死ぬるを人の誉れとは、 おほみこころの深ければ、 もとより如何(いか)で思(おぼ)されん。   ああ、弟よ、戦ひに 君死にたまふことなかれ。 過ぎにし秋を父君に おくれたまへる母君は、 歎きのなかに、いたましく、 我子(わがこ)を召され、家を守(も)り、 安しと聞ける大御代(おほみよ)も 母の白髪(しらが)は増さりゆく。               暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや、思へるや。 十月(とつき)も添はで別れたる 少女(をとめ)ごころを思ひみよ。 この世ひとりの君ならで ああまた誰(たれ)を頼むべき。 君死にたまふことなかれ。 妙国寺南の府立泉陽高校の中庭には、この「君死にたまふことなかれ」の碑がある。前身の堺高等女学校が晶子の出身...

文学周遊 井原西鶴 終焉の地を訪ねて

江戸時代の元禄年間に・大坂で上方文化が栄え元禄文化と呼ばれ文学も浮き世草子の登場により革新期に入った。その一人井原西鶴についての記事です。  現代の鎗屋町 大阪の郷土史家牧村史陽氏によれば、井原西鶴は鎗屋町二丁目骨董屋町筋付近で青年時代を過ごしたとされ御祓筋との東南角に西鶴の母屋や住居があったと推定されている。  また西鶴終焉の地とされるのが谷町三丁目付近から南に下り鎗屋町筋と交わるあたりの東側とされであるとされている。   17 世紀の世界文学にこれほどユーモアに満ちた文学は見当たらず西鶴の作品は世界的な文学として評価され認められている。また西鶴はリアリストとしても知られ同時代の近松の場合は家のため苦界に身を沈め好きな男のために心中するというロマンが描かれているが西鶴は人間における人間らしさを描いている。これは典型的な良妻だったおさんがいったん茂右衛門と関係を持ってしまうと狂言心中し見せかけて逃亡しようとする。この情熱は女性の心に潜んでいるのだと西鶴は伝えたかったのだろう。  その描きかたも現代小説のような登場人物と読者の距離が全くないのではなく西鶴の作品では読者はどこか遠くから登場人物の行動を眺めているだけである。現代小説では見られない視点で高度な表現技術であり未だに現代の作家には描ききれない構図となっている。  代表的な作品「好色五人女」は女性の自由な恋がままならぬ江戸時代の物語であるとしても一世一代の恋に破れた時、思わず死にたくなったり出家したくなる気持ちは男でも女でも恋愛の自由な今も変わらないであろう。勿論実際に実行する人は少ないとしても西鶴の描いた世界はたしかに現在にも存在している。そして現在も小説では取り上げられている。  参考として西鶴の時代の好色とは「美しい好ましい色」「異性間の交遊を現す言葉で」現在のしようされる意味とは全く異なる。ことを附記したい。  1993 年西鶴没後 300 年を記念して谷町三丁目の歩道上に「西鶴終焉地・西鶴辞世碑」が建立された。 此界隈井原西鶴終焉之地碑 「此界隈井原西鶴終焉之地」と角石柱に記されている。 石碑にはこのように刻まれていました。 難波俳林松寿軒西鶴  辞世 人間五十年の究り それさへ我にあまりたるにましてや 浮世の月見過ごしに...