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7月, 2007の投稿を表示しています

B懸垂岩跡

阪神大震災で崩壊し市内からも眺められた数多くのクライマーを育てた垂直の壁は今は瓦礫となっています。 このあたりの風景は震災で一変していますが未だ魅力を失っていません。楽しく歩くことができます。

夢二歌碑

竹久夢二の生家近くの道路沿いにある小さな高星神社の階段のそばに、歌で有名になった 待てど暮らせど来ぬ人を 宵まち草のやる瀬なさ 今よひは月も出ぬよな と宵待草の歌碑があります。 二番を作るよう進められても夢二は何故か作詞しなかったと語られています。 故郷を偲ぶ作品の多い夢二ですが、この作品の舞台は犬吠崎とされています。

越前和紙の里

江戸時代中期の紙漉き家屋を移築復元された卯立の工芸館です。 卯立とは、壁を立ち上げた屋根のことです。ここでは伝統工芸士が昔ながらの道具を使って和紙を漉く様子や屋外での和紙天日干しなど和紙が作られる一連の行程を見ることができます。

都市空間

回廊のある風景。現在は大丸神戸店となった旧居留地にあります。よく訪れて座り街の雰囲気を楽しんでいます。

梅田貨物駅

この貨物駅は役割を終えてまもなく吹田へ移転します。

筱見四十八滝

中世の頃、丹波修験道場として行者が水行した多紀連山の上筱見に登山口に8つの自然の滝があります。 始終8つの滝が凪がれているところから四十八滝となったといわれています。その中の大滝です。小金ヶ岳、御嶽、西ヶ岳への東登山口でもあります。

大滝神社

越前和紙発祥の伝説 創立の年月は詳しくないが、神宮谷より清く流れる岡本川の川上に、宮垣と称するところに往古より鎮座したしていた神が、村人家未だすくない頃、この神が少女となりて出現し村人に この郷田畝少なく将来農業をもって子孫を養うこと難かるべけれど、将来製紙をもって子孫の業とせよ と告げ、手から上衣を脱して竿頭にかけ(この故事に因み今なお竿に抄紙を吊す遺風を存す)懇切にその業を教えつづけたが、村人その神託を怪しみ、そのいずれより来ませしやを問い奉れば  吾はこの郷の地主の神なり。と語る。  村人恐懼していると神はすでに姿を消した。村民ら直ちに神託に従い製紙の業を創め漸次盛況を見るに至った。 その徳を慕い、川上に社殿を建立し岡太神社と建てたとされている  岡本川の川上に鎮座した神だと知り川上御前とも川上御神とも尊称されている。 製紙は創業以来漸次に盛大に赴き、漸次改良して奉書紙、鳥の子紙、その他諸紙を製造し越前和紙として有名になった。 越前和紙発祥の伝承については、川上御前の伝説の他に、男大迹皇子の第二妃近江国三尾民の娘稚子姫がこの地にとどまり、製紙を奨励されたという説、また紙を発明したといわれる蔡倫の技術を心得た帰化人か、もっと技術の進んだ曇微紙に近いような紙漉き技術に優れた者がこの五箇の地に来て、紙漉の技術を教えたという帰化人説などがある。

豪攝寺

越前市の味真野にある毫攝寺の偉容は、かっての歴史をうかがうことができる真宗出雲路派の本山です。毫攝寺の本堂や山門などのあちこちに施された彫刻は一見の価値があります。 梵鐘は北国随一と言われています。毫攝寺は与謝野晶子の歌の題材になったことでも知られています。

刻印石

個人の住宅の門前に大小10個の刻印石が丁寧に組まれ花も植えられ保存され景観にも調和しています。 rokurokuso-cyo Ashiya

奥山刻印石

徳川大坂城改築にともない芦屋から西宮にかけて大量の花崗岩が切り出されました。芦屋市内には矢穴石や大名の家紋や石工の記号が刻まれた刻印石が多く見られます。 鉄道線の車窓から眺める通称ごろごろ岳(標高565.6m)といわれる奥山一帯には、刻印石があちこちで見かけられます。この刻印石は標高460mにあり險しい斜面を打出の浜までどのように運搬したのか、人の知恵に驚くばかりです。 Okuyama Ashiya

梅雨明け間近

レリーフ

大正末期、朝日新聞記者だった藤木九三(くぞう)(1887〜1970)自ら「ロックガーデン」と命名したこの岩場で、岩登りの練習を重ね、わが国初のロッククライミングクラブ「R・C・C」を創設しました。 芦屋ロックガーデンとなづけられた岩場は日本の近代登山発祥の地となりました。 高座の滝の左壁には、藤木の顔のレリーフが飾られ、後輩たちが毎年、藤木の誕生日(9月30日)に近い日曜日に「藤木祭」を開かれています。 Shiroyama Ashiya

高座の滝

芦屋市内の三つの駅からも近く六甲登山路で最も多くのハイカーが行き来する場所です。 茶店もあり休憩スポットにもなっています。 雨上がりの滝を滑らかに撮影しました。 Shiroyama Ashiya

芦屋芸術祭

芦屋市を中心として活動するアート系NPO「芦屋芸術村」が主催する祭典です。 阪神淡路大震災5周年を記念して開催され今年で第6回目となります。主に芦屋ルナホールで開催されます。 多くの方に入場して頂き活動を支援して頂きたいものです。 基礎的な知的活動の場では箱物が造れないので行政は全く無関心であり目もくれないので・・・・・

ぎんぎんぎらぎら

葛原しげるは1886年(明治18年)6月25日広島県福山市神辺町生まれの教育者であり童謡作家・詩人です。代表作「夕日」のほか「とんび」、「キューピさん」等4000編あります。 生家は保存され、歌碑が建てられています。

新撰組壬生屯所跡

八木家は江戸時代には十家程の郷士と共に、村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役をも勤めていました。又、壬生村と京都守護職や所司代とも大変深い関わりがありました。 壬生は往古より湧水の出ずるところで、水質に大変恵まれ、壬生菜、菜種、藍などの産地でもありました。その藍で染めた水色は壬生の色でもあり、壬生狂言に使用する手拭いの色にも古くから使用されています。新選組が使っている羽織の段だら模様の水色は、この壬生の色であるとされています。 前川家は八木家と共に、新撰組の屯所の一つでした。幕末の歴史に残る事件がこの屋敷で起きています。 建物は今もほとんど当時のまま残っています。

日吉館

かつて、奈良を愛した多くの美術家・芸術家のための旅館として大いに賑わった。 日吉館は、奈良国立博物館の前で大正の初めに創業した旅館。2代目おかみのキヨノさんを慕う研究者、学者とその卵たちの常宿でした。 歌人の会津八一、彫刻家の平櫛田中、作家の堀辰雄、詩人の西条八十といった華やかな面々です。 おかみさんが平成10(1998)年に亡くなり旅館を廃業しています。 廃業後の画像です。

道元禅師碑

建長5年(1253)8月6日、永平寺を開山した道元禅師は越前と若狭の国境、木の芽峠の頂上で永平寺を仰ぎ若狭路へと向かいました。そのときの歌として   草の葉にかどでせる身の木部山(きのめやま)雲に路ある心地こそすれ  という一首が残されています。 この旧跡は道元禅師が10年間過ごした永平寺を去り、再び生きて永平寺に戻ることのできなかった峠として、天保13年(1842)仲秋、永平寺57世載庵禹隣禅師が敦賀・小浜寺院の協力をえて自然石に「道元大禅師」と揮毫して建立されたものです。 峠の茶屋には古くから番屋役人に当たる前川家が花を献じられています。

言奈地蔵

木ノ芽峠近くにある茅葺きの大きな地蔵堂です。地蔵尊は巨石に刻まれています。 このこの珍しい名前の地蔵尊のいわれは、昔、権六という馬子が地蔵尊の前で旅人を殺し金を奪い、「言うなよ!」といったら「地蔵言わぬが我言うな」と言われ驚いて山を下りた。その後この峠で殺した旅人の子供と出会い権六はおもわず旅人を殺したことを打ち明け、その因縁におののき自ら仇を討たれた。という伝説があります。 今もむかしもマスメディアを賑わす人の行ない、心の貧しい欲に走る人間に教える言われがあり今に伝えられています。

黒部下廊下水平歩道

40数年前の画像です。7月に入り友と二人で梅雨の中休みにと欅平から終日豪雨で数十箇所も頭上から流れ落ちる水流に堪えて水平歩道を歩いたこと黒部川の泡立つ激しい流れに雪渓のクレバスに緊張し歩いたことが思い出されます。 その日、阿曽原小屋は私たち2人の宿泊でした。 ハーフサイズの画像をモノクロに変えて見ました。 剣岳はあきらめて上部軌道で欅平まで戻りました。その年の9月には再び訪れ剣沢を室堂へと向かいました。

赤目四十八滝

30数年前のポジから起した画像です。その後この場所を訪れることはなかったのですが、単焦点レンズのカメラで撮影することは難しいことも多々あります。このスクエアー画像が自然な雰囲気を切取り新鮮な印象が生じるからでしょうか。