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神戸 諏訪山 諏訪神社

 再度山山麓の諏訪山に位置する神社です。神戸港に近くJR元町駅から20分近くの坂道を歩いた地点にあります。驚くほど古く、開基は古く仁徳天皇の皇后八田姫鎮護神として信州諏訪大社から奉斎されたと説明されている。神功皇后元年(201年)創建の生田神社と長田神社の中間点にあり中宮として信仰されてきました。神戸には摩耶山天上寺、太龍寺と古い寺社仏閣が存在していますが神戸では最も古い神社です。曇り空でしたが所要があり済ませた後時間があり立ち寄った画像です。

阪神御影駅

 阪神御影駅は1905年(明治38年)4月12日 - 阪神本線の開業と同時に開業した。駅高架下には神功皇后の伝説がある沢の井という井戸が保存され、噴水も設けられている。 灘五郷として江戸時代から現代も続く日本酒の生産地であった。戦時中米軍の爆弾や焼夷弾の爆撃で工場や住宅地が空襲により焼失そして50年後は阪神淡路大震災で被害を受けたがそま都度再建され現代に至って現在も銘酒が灘の酒として日本全国に発売されています。 御影駅はプラットホームは急カーブ(半径140mないし160m)上に存在するため、構内の通過速度は35km/hに制限されている。快速急行や回送などの通過時は低速でも激しい軌鳴りが生じている。 このため停車中の車両とホームのすき間が一部広く空いている上にホームの幅員自体も狭く阪神の駅の中では特に危険な駅とされているが阪神電鉄では特徴のある駅です。

戦争の痕跡 神戸海岸通 海岸ビル

神戸市景観形成重要建築。 神戸海岸ピル 登録有形文化財(建造物) 旧神戸居留地バンド(海岸通り)を代表する建造物。三井物産神戸支店ビルとして建てられた。設計は河合浩蔵。鉄筋コンクリート造4階建のオフィスビルで,ルネサンス様式の骨格にセセッションの細部が随所に採り入れられている。戦争末期、海岸通りに面した側面に修復されているが 機銃掃射の銃痕が残されている。 このような場所を戦闘機でなぜ機銃掃射したのか通行人を標的にしたとしか考えられない 位置である。これが戦争の証であるようだ。 阪神淡路大震災で全壊認定を受けたために幾何学的装飾が施された外壁を撤去・保管。その後、同じ場所に新しく再建された高層ビルの低層部に旧外壁を再構築した。この4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている    

戦争の痕跡 神戸海岸ビルヂング 

登録有形文化財 神戸市指定景観形成指定建物 兼松房治郎が創業した貿易会社兼松商店の本店として建設された建物です。設計は海岸ビルや神戸市 水の科学博物館、神戸地方裁判所、旧小寺家厩舎などを手がけた河合浩蔵氏です。海岸ビルはコンクリート建築ですが、明治に建てられたこちらは、レンガ構造となっています。竣工当時は、1階全体が兼松商店の事務所に充てられ、2階以上は貸事務所となっていました。内部、吹き抜け天井に色鮮やかなステンドグラスが飾られており、唐破風状の曲線を取り入れるなど独特のデザインが特徴です。現在は店舗、事務所、ギャラリーなどに活用されています。 神戸海岸通りに76,年前の1945年6月米軍は神戸市街地や住宅地を攻撃目標とした焼夷弾や爆撃の際に銃撃された痕跡がこのビルに鮮やかに残されています。ビルの壁面に残るこの銃弾の攻撃目標はなんであったのかこれが戦場だったからだと理解できない。  

源平合戦の古戦場 史跡生田森 生田神社   

 神戸の中心部にあり東門街など繁華街に囲まれた神社ですが境内の生田の森に入っていくと幻想的な気持ちになります、樹齢が何百年もなる巨木もが何本かあります。  古くより文人墨客に愛されてきたこの森も、現在では都会の真中のオアシスとして、また、パワースポットとしても親しまれています。  この生田の森ですが、古くは北の六甲山につらなり、南北短く東西に長く、旧生田川、現在のフラワーロードに及ぶ広大な森林だったと言います。 ここで昔、源平合戦や新田氏と足利氏の戦いがあった。戦国時代には織田信長と花隈城主の荒木村重軍との戦いの場になっている。久しぶりに訪れて参拝したさいの画像です。  

三ノ宮 夜の繁華街 東門街 

    神戸勤務の際には、下戸であるに関わらずたびたび飲み会に誘われて楽しんだ    こともありますが、その後大坂へ転勤となり神戸を訪れた際に昼間にあるく程度    となりその頃が懐かしく思いつつ歩いています。

戦後76年 神戸三ノ宮駅周辺 戦争の痕跡の記録

           米軍撮影画像 19458月 国鉄三宮駅 阪急神戸三ノ駅            駅交差点は加納町交差点 神戸市電の交差点も確認できる。   神戸大空襲の状況 アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17(1942)年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸などを空襲したのが最初で、神戸では、兵庫区中央市場付近が被害を受けたが、本格的なものではなかった。  神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20(1945)年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であった。  神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。また、5月11日の空襲では、東灘区(当時は住吉村)にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は芦屋・西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化し神戸市域は壊滅した。  神戸空襲による現在の神戸市域の被害は罹災者総数53万858人、死者7,491人、重軽傷者1万7,002人、被災戸数14万1,983戸となっているが、この数字は確定したものでなく、実際はこれを上回る膨大な損失であった。また、神戸市の人口千人当たりの戦争被害率は47.4人であり、五大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸)で最高を示したのである。                                                   「新修神戸市史 歴史編4 近代・現代」          JR三ノ宮駅 阪急神戸三宮駅と駅ビル     2021年撮影          JR三ノ宮駅 歩道橋に残る銃撃の痕跡 戦闘機は駅構内、鉄橋等人が避難 する箇所を銃撃そして焼夷弾で爆撃したと記録されています。          阪急神戸三宮駅ドームに残る焼夷弾爆撃の跡。高熱で支柱が歪んでいる 阪急神戸三宮駅上りホーム 上部の米軍撮影のモノクロ画像           の焼け野原となった街並みに黒色の部分のドーム屋根がこの現在           の神戸...

阪急神戸三宮駅に残る戦争の痕跡

戦後76年経過しましたが、戦争のあった日を思い出しました。 神戸市文書館の保存資料の米軍作戦任務報告第43号の軍事記録によれば、1945年3月17日、5月11日、6月5日と、3回にわたる米軍の「大空襲」で、10数万の焼夷弾が投下され、神戸の主な市街は焼き尽くされた。神戸大空襲は、尼崎、姫路、明石など兵庫県内の都市を標的にした一連の空爆の中で、最も規模の大きなものであった。1936(昭和11)年、大阪と神戸の中心地同士を結ぶために阪急神戸本線が延伸され、その際に神戸駅(現在の阪急神戸三宮駅)と一体で建設されたのが、神戸阪急ビル東館(以下、旧ビル)と西館だった。  さらに神戸沖には、5月3日から機雷投下がはじまった。さらに7月24日には、神戸市にある川崎車両、三菱重工業、神戸製鋼所、国有鉄道工場(鷹取工場、Imperial Government Railway Shops)に模擬原爆が投下された。原爆投下のための訓練として、爆薬が装てんされたプルトニウム型原爆(長崎型原爆)と同重量、同型のパンプキン爆弾の目標となったのである。この画像は、ドームの駅舎の側面と天井に焼夷弾のによる爆撃、機銃掃射により破損した箇所が丁寧に修復されています。 以前撮影した際と同じように思えましたが76年経過しても戦争の甚大な被害の大きさに驚かされました。  

神戸中突堤 かもめりあ ストリートピアノ

ハーバランドから帰途メリケン波止場に立ち寄りカモメリアのストリートビアノを撮影したのですがミスターラグビーの松尾誠二とも会うことが出来ました。 グランドピアノカワイクリスタルビアノKG3Dという形式ですが演奏禁止で音色は聞くことがでした。  

神戸ストリートビアノ DUOこうべ

若い  男性がiPadを置いて巧みな演奏を聞かせてくれました。音響もよくしばらく演奏を楽しみました。許可を得て撮影しています。