スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2007の投稿を表示しています

Field Photo Noto 1960 野辺山駅

1968年11月小海線沿線の飯盛山下山後野辺山駅で出会った貨物列車の画像です。 現在はリゾート地として開発されてますが、当時は高原野菜の栽培や牧場の広がるのどかな高原でした。

砕花歌碑

富田砕花の「歌風土記」の一首 しんとろりこはくのいろの滴りの澄めば澄むもの音のかそけく が刻まれ歌碑が砕花旧居の庭に建立されています。

渓谷

涸沢のゴルジェ状の狭い谷のこの小さな滝を登りつめますととA懸岩の広場に到着すします。その後は焼けつくような花崗岩の岩肌を丁寧に伝って行くと万物相で暑さから解放されます。

Field Photo Note 1960

のどかな貨物駅風景です。この時代将来に明るい希望の持てた時代でした。この40年後の現代、構造改革と既成緩和で格差社会、デフレと経済至上主義これほど住みにくい夢のない時代が到来することは誰も予想できなかったのではないでしょうか。

格式

近代化を目指した明治の建物は、江戸時代から続く工芸品のように格式高い作りとなっている。この場所でもブランドショップ等ただ目立てばよいと考え景観破壊する店舗も多くあるのが残念です。 だが現代人にこのような次の時代に残る格式のある構造物が残せるのだろうか。とこの街を歩いて考えさせられます。

Field Photo Note 1960

宇奈月駅 旧日電歩道 40数年前の6月に歩きその年9月に2度目の上廊下を欅平から阿曽原経由で剣岳へ歩いた際の画像です。旧日電歩道と名づけられていた懐かしい道です。

市街俯瞰

花崗岩の岩場は、夏場は触れると火傷するかと思うほど熱さがあります。涼しくなれば空が抜けた画面を撮影するためでかけたいものです。 晴天であっても大阪方面はいつの季節も暗雲が垂れ込め未だに葛城、金剛そして岩湧、その奥の大峰山もすっきりと望めません。

駅風景

福知山線沿線の山間の小さな駅古市駅の風景です。大阪からおよそ1時間で到着します。

神戸外国人旧居留地碑

1868年(慶応3年)から1899年(明治32年)まで外国人居留地として存在した。と碑に地図とともに刻まれています。この居留地は阪神間の生活習慣や食事等にものの考え方、文化に大きな影響を与えています。

万葉終焉の地因幡国府

大伴家持歌碑と佐々木信綱歌碑(画面右)。家持の歌碑は万葉仮名で刻まれています。 因幡国に赴任した翌年正月、新年祝賀会で「万葉集」の最後を飾る 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(20-4516)) と詠んだのを最後に歌わなくなり、万葉集最後の歌は、家持最後の歌でもあります。 信綱は 降る雪のいやしけ吉事ここにしてうたいあげむ言ほぎの歌 とあります。 詠み人知らずの歌碑 藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆるなり (10-1944) この歌も家持の作でないかとされています。

道路行政

道路づくりが国や都道府県の最も必要な施策なのだと、明治の文明開化以来考えいまなお続けていることは知恵のない人々の集合体ではないかと思うことが車で走っていて多く感じさせられます。 人にも優しい道路はほとんど見ることができませんが、ただ作ればいいと環境破壊のための緑地帯等の設備対策、違法駐車や騒音対策、速度制限、人々が歩き住む町であることを安全を考慮することも出来ないのが官僚思考なのでしょうか。

神戸港風景

久し振りにメリケン波止場を散策しましたが、余りにもの変わりように驚かされ木陰もなく暑さに耐えかねて早々に引き上げました。 かっての活気のある港風景は過去のものとなったようです。

矢穴石

矢穴(やあな)とは花崗岩を切り出すためのクサビを入れるために穿った穴を言います。 矢穴石(やあないし)は石を割り取るために矢穴を穿った石材で、徳川大坂城改築のため六甲東山麓で石材を調達しましたが、その作業途中で放置された石が芦屋市内の各所に残っています。個人で市が保存されていますが、宅建業者の住宅建設では保存されることなく必ずと言ってもいいほど活用されることなく破棄されています。 この石は芦屋市民センターに保存されています。

地蔵尊

芦屋駅前の都市空間に古い地蔵尊が祭られています。あちこちに眼にすることが多くありますが、この町は独特の瀟洒な町ですが明治末頃までの農村であった証かと考えられます。 地蔵尊の祠は町に溶け込んで歴史のある町を感じさせてくます。