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散策の際に見つけたバラ

バラもコロナウィルスのせいか勢いがいつもなら見頃でしたがこの日は期待はずれでしたが艶やか花を探して数枚撮影できました。  

芦屋神社 コバノミツバツツジ

         自宅近くの神社ですが、調査しても創始は不詳です。         天穂日命が高天原より降臨された磐座が六甲山頂に現存することや、         境内に横穴式石室古墳があることなどから推察して、約千四百年前         にはすでに六甲山を聖地として崇める豪族が芦屋の地にあり、         山の神を遥拝する施設としてこの里宮を建立したのではないかと         考えられています。西宮神社、廣田神社、保久良神社と阪神間         の数多くの神社が建立されていますので、六甲山の山頂付近の         磐座との関わりのある神社が多くこの付近の古い歴史を偲ぶ事ができます。  

芦屋鐵道紀行 さくら夙川・芦屋間  スーパー解像度画像

AdobePhotoSHOPのスーパー解像度の新機能により画像を操作していますが古いiMacですので操作が重くもありました。古い画像もそれなりに現像できるようです。楽しみが増えました。

芦屋藤ヶ谷遺跡 石器時代・弥生時代の遺跡

 自宅近くには、旧石器時代の遺跡そして縄文時代の朝日ヶ丘遺跡さらには八十塚古墳と  岩ケ平遺跡と古墳時代と六甲山南麓の芦屋市域に人類が居住した痕跡が遺跡調査で記録  されています。今後、さらに調査したいいものです。  今回取り上げた藤ケ谷遺跡の痕跡は一切残っていないのですが、発掘調査資料、現地調  査資料を紐解き学ぶことができました。  現在は集宅地として人口の少ない市ではあるのですが人類史上で芦屋市域は大阪湾に接  した阪神間の中心として繁栄していたことも教えられました。                      芦屋神社     紅野芳雄著「考古小録」には「猿の宮(芦屋神社)」の北方の小池の西畔所在の石器     時代遺跡として登場し、吉岡昭による「芦屋市遺跡地帯地図」では藤ケ谷遺跡」     として發掘調査されている。さらに猿の宮神社の北方の池の背後の山地からは弥生        式土器・石鏃、石錐 磨石。サヌカイトが出土している。     藤ケ谷遺跡の西には笠ケ塚遺跡がありその遺跡とつながっていたということも考えせ       れるとされている。     自宅近くであり芦屋市の山手でよく散策する地であり人が住み出したのは石器時代や     弥生時代かと教えられた。現在は住宅地となり記録文書のみとなっているが・・・         芦屋神社の南方標高80メートル地点の高台に8世紀の律令期に遡る官人たちの墓域があ      った。藤ケ谷という地名が残っているこの台地からは、阿呆親王塚、金津山古墳、打出    小槌古墳を見渡せる場所で、かっては、6〜7世紀の群衆墓が設けられていた。下記の芦    屋市にただ一つ残存する芦屋神社境内に残る横穴式石室古墳はその一つであるとされて    いる。    最近(2007年)の發掘調査では、この土地から火葬施設や火葬灰を埋めた穴、納骨した骨      蔵器(墓)がまとまって発掘された。    奈良時代、日本列島に導入された火葬墓は、律令国家の厳しい規制のもとに営まれたご      く限られた階層の人々の墓である。と「養老喪葬令(ようろうそうそうれい)」に定められ    ている。この付近は住宅地として開発され全く当時の面影はないが発掘された石器や土    器、遺物と発掘調査資料でのみ知ることができるのみである。    こ...

芦屋鉄道紀行 5064レ

ストック画像からの掲載です。外出自粛と雨天が多く出かけることもなく画像を整理して 見つけた画像です。これから鉄道写真撮影できるのでしょうか。  

戦国時代の芦屋の山城 鷹尾城.城山遺跡,城山南麓遺跡の記録

    戦国時代の山城 芦屋鷹尾城          鷹尾山を望む  ロックガーデンピラーロック跡から撮影 鷹尾城築城                                      京と西国を結ぶ交通の要衝として阿波の細川澄元の上洛を制圧できること。.肥沃な灘郷 を支配下におくことによって経済基盤の安定が得られること。が考えられる。 築城時期は記録されていないが、1511年(永正11年8月10日)赤松勢により、鷹尾城は落城し城主正頼は城を明け渡し伊丹城に退去しているので、この頃に城が存在したことは確かである。鷹尾城構築の際、本庄衆と用水権をめぐる抗争の記録によれば「鷹尾城の外堀をほれ樋にしてかくへし」(瓦林正頼記)にあるように外堀を掘ることによって用水路が遮断されることを意味している。    現在も芦屋に残る東川用水路跡から、芦屋川の河原毛堰堤の上部から引かれた水が遠く本庄へと流れていたことを確かめることができる。当時、暮らしのために芦屋川の水や山の資源が欠かせないものであった。本庄九ヶ村は三条、津知村を含み構成され、芦屋庄の芦屋村と打出村とは、争いが絶えない時代で、築城により本庄衆の水の確保が困難になるために阻止することが大きな原因であったのだろう。   記録によれば、1555年(天文24年)芦屋庄が西宮と本庄に持山を横取りされたと三好長慶に訴え抗議のため逃散し5年後に山の権利を取り戻したが、その後も争いが絶えず山争いの決着がついたのは、1749年(寛延2年)に芦屋庄が勝訴し解決した。   外堀は山麓の平地部に掘られた外溝で用意に常の居住する山麓の城郭に近づけないようにしたものであるり、硬い山肌を深くえぐって現在の山芦屋町の町中を流れ芦屋川に注ぐ高座川を外堀とし川底を深く掘り広げれば芦屋川からの水の流れは遮断される。        瓦林正頼記(続群書類従)によれば、「正頼ハ豊島里ニ常ノ宿所ハ在ナカラ、城ナクテハ叶フマシトテ四里西ニ武庫山ノ尾崎難太ノ内、鷹ノ尾ヲ城郭ニソ構ラレケル」とのみ記録が残っている。   芦屋鷹尾城は、芦屋川と高座川の渓谷に挟まれた標高260メートルの山頂の尾根上に築城されていた。比高差は約170メートルとなっている。その山城の構造は、尾根筋に沿ってくの字型の細長い縄張りを持...