自宅近くには、旧石器時代の遺跡そして縄文時代の朝日ヶ丘遺跡さらには八十塚古墳と
岩ケ平遺跡と古墳時代と六甲山南麓の芦屋市域に人類が居住した痕跡が遺跡調査で記録
されています。今後、さらに調査したいいものです。
今回取り上げた藤ケ谷遺跡の痕跡は一切残っていないのですが、発掘調査資料、現地調
査資料を紐解き学ぶことができました。
現在は集宅地として人口の少ない市ではあるのですが人類史上で芦屋市域は大阪湾に接
した阪神間の中心として繁栄していたことも教えられました。
紅野芳雄著「考古小録」には「猿の宮(芦屋神社)」の北方の小池の西畔所在の石器
時代遺跡として登場し、吉岡昭による「芦屋市遺跡地帯地図」では藤ケ谷遺跡」
として發掘調査されている。さらに猿の宮神社の北方の池の背後の山地からは弥生
式土器・石鏃、石錐 磨石。サヌカイトが出土している。
藤ケ谷遺跡の西には笠ケ塚遺跡がありその遺跡とつながっていたということも考えせ
れるとされている。
自宅近くであり芦屋市の山手でよく散策する地であり人が住み出したのは石器時代や
弥生時代かと教えられた。現在は住宅地となり記録文書のみとなっているが・・・
芦屋神社の南方標高80メートル地点の高台に8世紀の律令期に遡る官人たちの墓域があ
った。藤ケ谷という地名が残っているこの台地からは、阿呆親王塚、金津山古墳、打出
小槌古墳を見渡せる場所で、かっては、6〜7世紀の群衆墓が設けられていた。下記の芦
屋市にただ一つ残存する芦屋神社境内に残る横穴式石室古墳はその一つであるとされて
いる。
最近(2007年)の發掘調査では、この土地から火葬施設や火葬灰を埋めた穴、納骨した骨
蔵器(墓)がまとまって発掘された。
奈良時代、日本列島に導入された火葬墓は、律令国家の厳しい規制のもとに営まれたご
く限られた階層の人々の墓である。と「養老喪葬令(ようろうそうそうれい)」に定められ
ている。この付近は住宅地として開発され全く当時の面影はないが発掘された石器や土
蔵器(墓)がまとまって発掘された。
奈良時代、日本列島に導入された火葬墓は、律令国家の厳しい規制のもとに営まれたご
く限られた階層の人々の墓である。と「養老喪葬令(ようろうそうそうれい)」に定められ
ている。この付近は住宅地として開発され全く当時の面影はないが発掘された石器や土
器、遺物と発掘調査資料でのみ知ることができるのみである。
この墓地は兵庫県の数少ない当時菟原郡を管轄する階層の公墓地とされている。
芦屋神社横穴式石室古墳
芦屋神社石室古墳見取り図
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