戦国時代の山城 芦屋鷹尾城
鷹尾山を望む ロックガーデンピラーロック跡から撮影
京と西国を結ぶ交通の要衝として阿波の細川澄元の上洛を制圧できること。.肥沃な灘郷 を支配下におくことによって経済基盤の安定が得られること。が考えられる。 築城時期は記録されていないが、1511年(永正11年8月10日)赤松勢により、鷹尾城は落城し城主正頼は城を明け渡し伊丹城に退去しているので、この頃に城が存在したことは確かである。鷹尾城構築の際、本庄衆と用水権をめぐる抗争の記録によれば「鷹尾城の外堀をほれ樋にしてかくへし」(瓦林正頼記)にあるように外堀を掘ることによって用水路が遮断されることを意味している。
現在も芦屋に残る東川用水路跡から、芦屋川の河原毛堰堤の上部から引かれた水が遠く本庄へと流れていたことを確かめることができる。当時、暮らしのために芦屋川の水や山の資源が欠かせないものであった。本庄九ヶ村は三条、津知村を含み構成され、芦屋庄の芦屋村と打出村とは、争いが絶えない時代で、築城により本庄衆の水の確保が困難になるために阻止することが大きな原因であったのだろう。
記録によれば、1555年(天文24年)芦屋庄が西宮と本庄に持山を横取りされたと三好長慶に訴え抗議のため逃散し5年後に山の権利を取り戻したが、その後も争いが絶えず山争いの決着がついたのは、1749年(寛延2年)に芦屋庄が勝訴し解決した。
外堀は山麓の平地部に掘られた外溝で用意に常の居住する山麓の城郭に近づけないようにしたものであるり、硬い山肌を深くえぐって現在の山芦屋町の町中を流れ芦屋川に注ぐ高座川を外堀とし川底を深く掘り広げれば芦屋川からの水の流れは遮断される。
瓦林正頼記(続群書類従)によれば、「正頼ハ豊島里ニ常ノ宿所ハ在ナカラ、城ナクテハ叶フマシトテ四里西ニ武庫山ノ尾崎難太ノ内、鷹ノ尾ヲ城郭ニソ構ラレケル」とのみ記録が残っている。
芦屋鷹尾城は、芦屋川と高座川の渓谷に挟まれた標高260メートルの山頂の尾根上に築城されていた。比高差は約170メートルとなっている。その山城の構造は、尾根筋に沿ってくの字型の細長い縄張りを持ち、頂上部は8~9メートルの大堀切によって3区画に分割されている。曲輪は、尾根筋に沿って設置された土累も残っている。
発掘調査ではこの付近から瓦、壁土の固まり、土師質皿、備前焼擂鉢、硯等が出土している。山城は平城と異なり自然と一体化しさらには木造建築、土累等で築城されているため長い年月を経て樹木が繁茂し風雨で地形も変貌し遺構の存在も定かでなくなってしまう特徴がある。鷹尾城遺跡は六甲花崗岩の地質帯にあり最も風化しやすい地質だとされているが、ロックガーデンのように年月の風化にも耐えていまなお樹木に埋もれてはいるが遺構がかろうじて確認できる
また、当時の西国街道は、西宮の越水城下を南方へ下がらず芦屋方面へ直進し打出に入り現在も一部残る西国街、2号線沿いにそって神戸へと続いていた。海岸線も山麓沿いにあった。
細川政元の領国だった摂津では、突如として国衆の瓦林正頼が出世した。戦国乱世の初期は大小名になりつつあった国衆の一国制覇の争いであった。国衆は小名だが、瓦林氏は尾張の織田氏、摂津の池田氏、伊丹氏のように大名と言える実力を持った国衆もいた。国衆らは郷衆を一族、殿原とし住民を若党とし郷村支配を進めた。ここで郷衆は子弟を国衆に被官として送るとともに郷村の村領確定、利害の調整、隣接郷村との争いには武力解決も生じ5人衆、7人衆などと称された。それが郷衆である。
大小名となった国衆も縄張争いが主でこのことが戦国乱世の世といわれる所以である。戦に敗れ追われた国衆は土着勢力であるので、隣郷に逃避し郷衆を支持するので勝った国衆も兵力が弱小のため新領の支配は徹底できないため、国衆の興亡一時的なものとなる。そのため国衆は連合するか、旧貴族大名に帰属しなければならなかった。
戦国の乱世に乗じて勢力を拡大するために、摂津守護の細川氏などの政治権力を背景としてその勢力を確立するために鷹尾城を後に越水城を築城した。
摂津国は、大和や京都の都から西に向かう大路西国街道が最も重要な交通路であったが、長尾山地、六甲山地を巡る交通路、西進し有馬を経て播磨へ向かう湯之山街道、京都方面から丹波国を通過して北方から摂津国に入り播磨国へ抜ける丹波路が存在した。だが西国街道が主街道で、六甲山地の北側が裏街道として中世では両ルートとも重要で城館もこの街道に沿って築城された。
鷹尾城跡の現状
山城の遺構を求めて山芦屋町から高座の滝へと向かう道路から分かれて城山への登山道を南から登って行くと200メートル地点に4段で構成される出曲輪に至ることができる。この地点からは展望も開け麓はもちろん神戸も一望できる地点である。
さらに、登りつめると255メートルの地点に曲輪があり、少し上部の261メートル地点には城山山頂として親しまれるテレビ中継所のある一の曲輪に到達する。この平地は現在では樹木が生い茂り西側のみかろうじて展望可能であるが、神戸、西宮方面が一望できる地点である。
登山道は一の曲輪から下り高座川と芦屋川に落とされた竪堀にかかる土橋Aを渡り、土累B、Cを歩くと櫓台状の台地Eの西側へと回り込む。この土累から竪掘Dが櫓台から竪掘Fが芦屋川へおとされている。
竪掘Fを足下に眺めて通過すれば登山路の東側に高圧線の鉄塔の建つ二の曲輪に到達する。この地点からも展望は開けている。さらに鷹尾山へと向かい歩くと鞍部には芦屋川に向かい三の曲輪が設けられている。
城の曲輪や櫓、掘の配置を考証してみても鷹尾城の根城は一の曲輪か二の曲輪か判定しがたく不明であるが、土累A,Bの西側に横堀に見える掘が2本明確に確認できるが、第二次世界大戦中、高射砲の観測塔と塹壕跡だとされているため城跡とは関係のないものである。一万分の一の地形図でこの掘り状の窪地を無視し鬱蒼と茂った樹間であっても確めると三段に及ぶ広大な一つの曲輪ではなかったかと推定できる削平地の存在が確認できる。土累と竪掘りの後方であるため武士達の居館、武器倉、食料庫と思われる平地がある。瓦や壁土が出土していることから推定すればこの曲輪が二の曲輪であったとも考えられる。
三の曲輪を通り過ぎれば鷹尾山の水準点を通過し鞍部から登山路が高座の滝への分岐点となる鞍部へと下っている。 鷹尾城は、東の芦屋川方面への防備施設は存在しても背後の鷹尾山方面からの攻撃は一切考慮されていないため無防備に近い状況である。これでは籠城戦に耐えられる山城ではない。また、井戸の施設も見あたらず飲料水の確保も困難であっただろう。阪神大震災前までは高座の滝に向かう谷筋に十楽水という水場が存在したが多量の水は困難で合っただろう。 芦屋川と高座川の合流点近くに城主の居館があったとされているが定かではない。城の構造上最も重要な役割を担う出入り口、虎口は不明である。竪掘の配置から推察すれば現在の登山路ではなかったことは確かなことである。弥生時代中期から相当長期間城山山頂付近と東南の山腹230メートル地点に高地性集落の遺跡が発掘されていること、並びに芦屋川右岸に古くから六甲への道も存在していたことにより、出曲輪や竪掘との関連で虎口の位置が考えられる。
鷹尾城築城の時代背景
高座川と芦屋川の渓谷に挟まれ、市街から眺めると急峻な緑におおわれた一見独立峰に見える山が芦屋川沿いの道から眺められる。この山が、通称城山と呼ばれる鷹尾山(標高271.8メートル)である。山頂付近からは、市街や大阪湾が一望できる景勝の地であり、道畦や岩梯子を経て荒地山へそして六甲山頂等へのハイキングの展望コースとして多くの人々に親しまれている。また、芦屋を紹介する風景写真として開森橋から桜花とともに背景に写しこまれる山でもあり多くの人の眼にふれられている山でもある。この山頂付近に、今をさること約500年の戦国時代に城が築かれその痕跡が残されているということを知る人はそう多くはない。それも城という言葉からは、桃山時代から平地に築造されはじめた天守閣、瓦葺きの櫓と白壁の塀そして石垣と水をたたえた掘などの権威の象徴としての城郭の印象が強いからであろう。茅葺きや板葺きの木造建築では、朽ち果て掘や山頂の平地には樹木が繁りその痕跡はよほどの知識がない限り確かめにくいものである。
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院撮影の空中写真を複製したものである。 (承認番号平15総複第624号)
中世は戦乱の絶え間のない時代であった。源平の合戦にはじまり、承久の乱、弘安の役、元弘の変、建武の中興、南北朝の抗争、応仁の乱、加賀一向一揆と室町幕府の権威は衰退し戦国時代へと入り全国各地に群雄割拠した地方豪族が戦乱に備え城郭を築いた時代であった。また戦国群雄の規模も小さくそれほと大規模な城地は必要としなかった。戦国時代の城郭は、平地や丘稜に構えた平城と高い山に拠る戦闘用の城砦で構築されていた。戦時に立てこもることを目的とした城砦は、前後を深い谷に囲まれた険しい独立した山を利用し自然の地形を活用し削平した後に曲輪を設備する。その曲輪には館や武器蔵も建て、周囲を土累、空堀などを巡らせ櫓を組み柵をめぐらせるとともに場内の通路、虎口の配置を考慮し攻略されにくいように考え築城した。戦闘は弓矢と刀が主力で、多勢の敵が一度に接近しにくい地形として山の頂上付近が理想的な場所として選ばれた。そうじて山城は大規模な構造ではなく幾団にも別れ防御の持続性が図られている。また狼煙、烽火などにより離れた城相互の連絡をとるための役割も持っていた。この目的を果たすため山城は相互に見通しの可能な場所が立地条件でもあった。
鷹尾城中世の城砦は
壮大な天守閣をもった城郭建築ではない。「野づら積み」と称する自然石を組み合わせた強固な石垣築造の城砦は存在するが、近世的な城郭の出現は、天文十二年「(一五四三)にポルトガル人が種子島に漂着して伝えた鉄砲が、実戦に使用されることになったための戦術の変化と、戦国大名が城下町形成につとめた結果生まれてきたものであり、中世の城砦は、じつはわれわれの脳裏にある、いわゆる城とは異なる形式のものなのである。 中世の城砦には、山頂に築かれたものと、平地に築かれたものとがある。近畿では山頂城砦の著名なものは
摂津国鷹尾城(瓦林氏・二五〇メートル)
河内国高安城(松永氏・四八〇メートル)大和国高取城(越智氏・四八〇メートル)
などをあげることができるが、山頂の城砦は案外に少なく、阪神間では芦屋での鷹尾城が唯一の山城であった。
戦国時代の山城は一つではなく詰めの城(中心となる城)の周辺に複数の城を配置する集団城郭で構成していた。鎌倉北条軍に対抗した楠正成は千早城の周辺に上赤坂城、下赤坂城、国見山城、龍泉城を築き難攻不落の名城として山城の手本となった。
見通しの点からすれば高所ほど有利であるが、平地との往来に不便があり、おおよそ高度200メートルから300メートル、比高は50メートルから100メートル程度の独立峰が選ばれている。なお山城は防御か攻撃のみに対処したものでなく、落城の際の退路をも考慮されていた。
鷹尾城も、東に芦屋川と西側の高座川に挟まれ、後背地は道畦や馬の背から岩梯子と続く荒地山という立地条件を生かし築城されている。六甲山麓の山城は背後の山地を通過することにより容易に裏六甲の街道へ出て播磨国、丹波国へと移動が可能である。
出曲輪
出曲輪は標高200m地点ですので国土地理院の地図この直下に徒歩道の記号があり城山古墳も確認できるのなと思いつつ下山したが10分近くですぐに現在の登山路の近くへ下山できたのでこの道が旭塚古墳跡の麓の居館と結ぶ通路であったものと推定され連絡されているのかと考えられる。この付近が山城の虎口であろうか。
出曲輪直下の道をは下ると国土地理院25000分の1地形図の146m地点の登山路と合流する地点です。このルートが鷹尾城への登城ルートだと考えられる。何度か歩いたが歩きやすい道であった。
曲輪(くるわ)とは、郭とも言う。山頂付近の傾斜地を削平し造成する。削平の手間を省いて傾斜地を残す場合もあるが、大部分は地形の高い面を削りその土を低い面に盛り上げ水平にする。その役割や機能に応じて場内に区画設置される。周囲から進入することが困難難にさせるように造成され た小区域を言う。天正年代の後期から「丸」と称されるようになった。曲の種別として、城主や重臣たちが籠もって作戦の指揮を執る一の曲輪、根城とも言われる城の中心となる曲輪です。
神戸市内と会下山展望
芦屋ロツクガーデン万物相から鷹尾山展望
土累、塁とは、土を高く盛り上げて、城の防御を固める設備 で傾斜地形等を利用、曲輪の削平した残土や掘を掘った土を盛り上げて造成する。土累の斜面角度は45度から60度程度である。
工事が終わるとその人は、宝塚海軍航空隊へ配属され宝塚
徒歩で帰宅した。当時15歳や16歳の少年が戦争の要員として
この竪堀D地点から芦屋川右岸へ下ったことがある。その理由
として直下の芦屋川右岸には陽明水と宝泉水の水場があり藪こぎしつつ25分近くで到着した。た。しかし下りはそれほど困難ではなかったが、大小の岩が安定しないこの竪堀を登ることは相当な体力が必要である考えさせられた。
竪堀E
櫓台跡 鉄塔工事前矢倉(櫓) 位置は塀より2尺(約0.6メートル)内側に、塀の上2尺あまりの高さで建て7尺(約2.1メートル)程度の四角形だった。
芦屋市史によれば、この鉄塔下部で昭和33年試掘の際トレンチ(2.3号トレンチともに東西2m・幅1m)にては含層に遺存していなかったが、上記画像の土器と若干の遺構が採取された。と記録されている。 トレンチ(2.3号トレンチともに東西2m・幅1m)にて建物含層に遺存していなかっが上記画像の土器と若干の遺構が採取された。と記録されている。
弥生時代の高地性集落跡
遺跡から発掘された弥生時代の柱穴跡
昭和33年の調査で第5号トレンチから発見された弥生時代の柱穴跡と黒雲母微細片を含んだ河内系の土器が出土している。さらに、Ⅳ期末の(1世紀)末の近江産の受口状縁罌が最西端として出土している。(芦屋市史) 尾根上一帯にかなりの規模を持つ集落が存在し開放的空間の環境下で広域の人々が往来してい新しい文物の公益が行われていたとされている。と調査結果が芦屋市史に記載されているが送電線工事等により破壊されているため果たして遺跡が残されているかのか今後の調査を待つしかないようだ。六甲山麓に分布する高地性集落の中でも特異な立地条件を持つ集落として学会から注目されている。随分以前に鷹尾城の遺跡を調べた際、高座川沿いの155mの地点からこの位置まで広い谷を30分近くで直登したことがあり人の行き来も可能かと考えられた。
現在の曲輪2跡
曲輪2から曲輪3、背景は荒地山
城山遺跡は従来からも第三様式の土器類が採取される地域であるため、会下山遺跡の発掘調査と平行して、標高二五〇メートルの山頂平坦部にトレンチ(試掘溝)を掘って、予察調査をおこなった遺跡である。国有林であるので、営林署の係官の立合のもとに調査をおこなった。この結果、表土下一メートルまでに、弥生中期の住居址床面や柱孔の遺構が存在すること、第三様式から第五様式に至る土器が包含散布されていることなどが分り、会下山と同じく山頂式高地性集落遺跡であることが認定された。全貌については将来の本格的な発掘調査を課題とされている。と市史に記されている。山頂尾根のコバノミツバツツジの散策路、残念ながら半分近くは伐採されている。
山頂尾根のコバノミツバツツジの散策路
鷹尾城の歴史
京と西国を結ぶ交通の要衝として阿波の細川澄元の上洛を制圧できること。.肥沃な灘郷 を支配下におくことによって経済基盤の安定が得られること。が考えられる。 築城時期は記録されていないが、1511年(永正11年8月10日)赤松勢により、鷹尾城は落城し城主正頼は城を明け渡し伊丹城に退去しているので、この頃に城が存在したことは確かである。鷹尾城構築の際、本庄衆と用水権をめぐる抗争の記録によれば「鷹尾城の外堀をほれ樋にしてかくへし」(瓦林正頼記)にあるように外堀を掘ることによって用水路が遮断されることを意味している。現在も芦屋に残る東川用水路跡から、芦屋川の河原毛堰堤の上部から引かれた水が遠く本庄へと流れていたことを確かめることができる。当時、暮らしのために芦屋川の水や山の資源が欠かせないものであった。本庄九ヶ村は三条、津知村を含み構成され、芦屋庄の芦屋村と打出村とは、争いが絶えない時代で、築城により本庄衆の水の確保が困難になるために阻止することが大きな原因であったのだろう。
記録によれば、1555年(天文24年)芦屋庄が西宮と本庄に持山を横取りされたと三好長慶に訴え抗議のため逃散し5年後に山の権利を取り戻したが、その後も争いが絶えず山争いの決着がついたのは、1749年(寛延2年)に芦屋庄が勝訴し解決した。
外堀は山麓の平地部に掘られた外溝で用意に常の居住する山麓の城郭に近づけないようにしたものであるり、硬い山肌を深くえぐって現在の山芦屋町の町中を流れ芦屋川に注ぐ高座川を外堀とし川底を深く掘り広げれば芦屋川からの水の流れは遮断される。
瓦林正頼記(続群書類従)によれば、「正頼ハ豊島里ニ常ノ宿所ハ在ナカラ、城ナクテハ叶フマシトテ四里西ニ武庫山ノ尾崎難太ノ内、鷹ノ尾ヲ城郭ニソ構ラレケル」とのみ記録が残っている。
芦屋鷹尾城は、芦屋川と高座川の渓谷に挟まれた標高260メートルの山頂に築城されていた。比高差は約170メートルとなっている。その山城の構造は、尾根筋に沿ってくの字型の細長い縄張りを持ち、頂上部は8~9メートルの大堀切によって3区画に分割されている。曲輪は、尾根筋に沿って設置された土累も残っている。
発掘調査で瓦、壁土の固まり、土師質皿、備前焼擂鉢、硯等が出土している。山城は平城と異なり自然と一体化しさらには木造建築、土累等で築城されているため長い年月を経て樹木が繁茂し風雨で地形も変貌し遺構の存在も定かでなくなってしまう特徴がある。鷹尾城遺跡は六甲花崗岩の地質帯にあり最も風化しやすい地質だとされているが、ロックガーデンのように年月の風化にも耐えていまなお樹木に埋もれてはいるが遺構がかろうじて確認できる
また、当時の西国街道は、西宮の越水城下を南方へ下がらず芦屋方面へ直進し打出に入り現在も一部残る西国街、2号線沿いにそって神戸へと続いていた。海岸線も山麓沿いにあった。細川政元の領国だった摂津では、突如として国衆の瓦林正頼が出世した。戦国乱世の初期は大小名になりつつあった国衆の一国制覇の争いであった。国衆は小名だが、瓦林氏は尾張の織田氏、摂津の池田氏、伊丹氏のように大名と言える実力を持った国衆もいた。国衆らは郷衆を一族、殿原とし住民を若党とし郷村支配を進めた。ここで郷衆は子弟を国衆に被官として送るとともに郷村の村領確定、利害の調整、隣接郷村との争いには武力解決も生じ5人衆、7人衆などと称された。それが郷衆である。
大小名となった国衆も縄張争いが主でこのことが戦国乱世の世といわれる所以である。戦に敗れ追われた国衆は土着勢力であるので、隣郷に逃避し郷衆を支持するので勝った国衆も兵力が弱小のため新領の支配は徹底できないため、国衆の興亡一時的なものとなる。そのため国衆は連合するか、旧貴族大名に帰属しなければならなかった。
戦国の乱世に乗じて勢力を拡大するために、摂津守護の細川氏などの政治権力を背景としてその勢力を確立するために鷹尾城を後に越水城を築城した。
摂津国は、大和や京都の都から西に向かう大路西国街道が最も重要な交通路であったが、長尾山地、六甲山地を巡る交通路、西進し有馬を経て播磨へ向かう湯之山街道、京都方面から丹波国を通過して北方から摂津国に入り播磨国へ抜ける丹波路が存在した。だが西国街道が主街道で、六甲山地の北側が裏街道として中世では両ルートとも重要で城館もこの街道に沿って築城された。鷹尾城争奪の歴史
鷹尾城築城後の永正8年5月1日、細川澄元方の本庄衆と西宮衆の地侍達が城を攻撃することを察知した正頼は夜襲をかけ同族の足高某を討ち取った。その後、本庄衆は5月6日に兵を集めて鷹尾城を包囲し攻撃したが正頼は敗走させた。陣容を立て直した尚春は6月6日になおも攻撃したが、瓦林正頼は城より打ち出て尚春勢を敗退させた。 これを知った細川澄元は、深江(神戸市)に細川尚春を陣取らせ本庄衆と合流し再度鷹尾城の攻略をたてた。瓦林正頼は、細川高国に援軍を依頼し正頼は山手を京衆は浜手を固め7月26日芦屋河原合戦を交え激戦の末に尚春は再び敗走した。その後、尚春は播磨置塩城の赤松義村に援助を求め、再度8月8日に大軍で鷹尾城は包囲され9日の合戦で、手負三千人におよび正頼は、「さかしき谷。高き岸ともいはず攻められける間。城の内にもここをせんどヽ戦ひければ。その日も暮て寄手も麓へ引。しかれ共。城の中に此分ならば叶はじと思ひ。」(「続群書類従」瓦林正頼記)、十日の夜、城を明け渡し伊丹城へと敗走したが播磨勢はなおも追撃し伊丹城へと追撃し包囲する。そのため正頼は小者一人とともに手勢を残し丹波国波多野城へ落ち延びていった。上洛した細川尚春は、8月24日一時丹波に逃れ勢力を回復した細川高国に攻められ船岡山の合戦で敗れ四国へ退却した。瓦林正頼は再び鷹尾城へ戻り城を修復するとともに「続群書類従」瓦林正頼記によれば、「正頼モ又鷹尾城を構ヘ、又其東一里隔テ西宮ヨリ八町北ニ小清水トテ小山ノアルヲ家城ニ拵ヘ、日夜只此営計也、毎日五十人百人人シテ掘ヲホリ壁ヲヌリ土居ヲツキ矢倉ヲ上ケレハ、鍛冶番匠壁塗大鋸引更ニヒマコソナカリケリ」越水城を築城した。鷹尾城は支城として与力鈴木与次郎に守らせた。1519年(永正16年)阿波から再起し上洛するための補給基地として細川澄元は、兵庫に上陸し神呪寺の南鐘の尾山に本陣を構え越水城を攻撃した。「細川両家記」にある西摂の大乱と呼ばれる戦場となり1520年(永正17年)2月3日越水城は落城し、正頼は泉州堺に逃れていった。開城の原因には、「自焼落」とあり陥落の際自ら放火したとも「兵糧尽キ、勢キ」と記録されている。澄元は伊丹城へ上洛した三好之長は高国方の反撃に合い捕らえられ切腹し澄元は阿波に逃れたがその後病没した。だが正頼は、その年10月、敵に内通した疑いの嫌疑「与敵通達之儀」により高国から切腹を命じられ京都でその生涯を閉じた。正頼の嫌疑も摂津の国衆も細川家と同様に正頼方でも内紛が生じていたためともされている。 その後、越水城は澄元方の部将三好氏の城となる。鷹尾城の廃城に関する記録は、正頼は連歌を嗜み「新撰莵玖波集」の代表作家の一人宗長を鷹尾城に招いた。宗長はその著「那智籠」に永正13年(1516年)2月に鷹尾城に立ち寄り「有馬よりまかりいてヽ芦屋のなたにして河原林対馬の守新城」と題した歌を残に記載されてあと見あたらず、永禄8年(1565年)越水城攻防の記録にも登場しないため、廃城後すでに年月が経過しているものと考えられる。廃城の時期については、瓦林正頼が越水城落城の責任をとって切腹した永正17年(1520年)と推測されている。しかし、1565年(永禄8年)の信長の摂津平定により越水城は落城しその後廃城となったが、この間も越水城の支城として存在していたとの説もあるが定かではない。
松若物語
永正8年、瓦林正頼は丹波から戻り越水城を築城後、鷹尾城は城掛けとして与力鈴木与次郎にまかせた。この戦により澄元方の灘の地侍達は、播磨や淡路、阿波へと逃れていったが、その地侍の一人河島兵庫助が正頼の与力を頼って降参を願い、正頼は扶持を与え鷹尾城へ詰めさせた。この兵庫助には松若という16歳になる子供がいた。「容顔見ニクカラス、心又タクヒナシ、剰歌道ヲモ心ニカケヽレハ心ヲヒク人ソ多カリケル、是ヲ正頼膝モトニテソツカヒケル」と松若は正頼に仕えた。 だが、兵庫助は、無沙汰して年月を送り敵へ内通するとの風聞があり彼を生害させるべしと越水城で談合があり、松若はこのことを聞きおよび、その夜、子細を父に知らせるため鷹尾城へと向かったが、払暁に父は生害させられていた。
鷹尾城の廃城
細川政元が1473年(文明3年)細川勝元の死後、管領家を相続したが、将軍足利義植を擁立する畠山政長と対立し1493年(明応2年)畠山政長を滅ぼし足利義植を追放し、翌年足利義澄を将軍に擁立し管領となった。政元には子はなく、養子として前関白九条政基の子を細川澄之、阿波国守護細川成之の孫を細川澄元、細川家庶流細川正春の子を細川高国の三人を迎えた。1507年(永正4年)6月、この三人の家督争いに巻き込まれ政元は細川澄之派の香西元長、薬師寺長忠に暗殺された。細川澄之は将軍足利義澄から家督を認められ澄元を近江に遂って実権を握ったが、細川高国、正賢が澄元に味方し8月自害した。前将軍義植が大内義興に擁立され上洛し、細川高国が澄元に反旗を翻し管領となった。澄元と高国の争いは以後も続き細川家が二派に分裂したこの混乱は「二川分流」と名付けられている。 1530年(享禄3年)高国は、澄元の子である晴元を擁した三好元長と摂津天王寺の戦いで敗れ尼崎で捕らえられ広徳寺で自害した。高国が没落したあと晴元が実権を握ったが、家臣の三好長慶は高国の養子細川尹賢の子氏綱が1543年(天文17年)挙兵し長慶は氏綱擁立に転じ晴元は京都から追われ細川家の管領は事実上終わる。 鷹尾城は、細川家の養子三人が激しい家督争いを繰り返したため摂津の要衝の地としの攻防が繰り替えされたがやがて細川家が没落するとともにその役割を終え、静かに木立の中で眠り続けている。
参考 戦国時代の山城の構造
(1)曲輪(くるわ)
郭とも言う。山頂付近の傾斜地を削平し造成する。削平の手間を省いて傾斜地を残す場合もあるが、大部分は地形の高い面を削りその土を低い面に盛り上げ水平にする。その役割や機能に応じて場内に区画設置される。周囲から進入することが困難にさせるように造成された小区域を言う。天正年代の後期から「丸」と称されるようになった。曲輪の種別として、城主や重臣たちが籠もって作戦の指揮を執る一の曲輪、根城とも言われる城の中心となる曲輪。
(2)殿舎
中世には、城と離れた場所に領主は居館を構えていたが、戦国時代には戦乱が激化したため城中に居館を構築し領主と重臣たちの日常生活が営まれるようになった。中世館は板葺や茅葺が多い。その外に目板葺、錣葺そして瓦葺の屋根が多く遺構は残ることはない。
城郭に人工的に掘り下げられた壕で水がなく乾掘とも言われる。形態として箱掘、薬研掘、堀切、竪掘等がある。山城では曲輪を取り囲むような横堀はほとんど存在しないのは山の斜面横方向に削ると地盤を弱めることと堅固な工事が可能な技術も工費もなかった。代わりに山上から下方に向かって斜面に縦のの溝をつける竪掘が用いられた。その断面をV字型、逆台形状等に加工し、平時は木橇を用いて掘底を通路としても使用されていた。
(4)虎口
城の出入り口で城門等を設けないもの。あるいは冠木門のような簡単な門があったが、出入り口は寄せ手が殺到しやすく、侵入されると落城の危機があるため、侵攻されても見通しを遮断する「かざし」、「しとみ」等の障害物を設けるなどして厳重に構え、また機を見て打ち出て攻撃することも考慮し両方の機能を兼ねた構造とさせた。
城の入口。丸太を組んだものから木戸の上に橋を渡して武者走りを設け、表側に狭間 を開けた板をたてた構造のものがあった。
(6)土累
塁とは、土を高く盛り上げて、城の防御を固める設備で傾斜地形等を利用、曲輪の削平した残土や掘を掘った土を盛り上げて造成する。土累の斜面角度は45度から60度程度である。
(7)塀と狭間
高さ6尺程度(約1.8メートル)、長さ1間(1.8メートル)につき5本前後の間隔で建て、
(9)矢倉(櫓)
位置は塀より2尺(約0.6メートル)内側に、塀の上2尺あまりの高さで建て7尺 (約2.1メートル)程度の四角形だった。井戸型に組んだ二重三重に組んだ組み 立て式の櫓で、周囲は盾で覆う構造とさせた。
(11)逆茂木・さかもがり等
土居や掘の前面に木や竹で組んだ障害物で進入しにくい設備を設けた。
城山遺跡の山麓部一帯には、弥生式土器と石鏃、石匙。石斧などの石器類の散布が知られていた。
芦屋市史では「山芦屋遺跡」として知られているが、この遺跡の発見者である「郷土石器時代文化研究」(昭和17年)の著者、吉岡昭氏の中では「城山山麓」と破砕されているため「城山南麓遺跡」としている。遺跡は、芦屋川と高座川が合流する三角点以北、両川に挟まれた地形に位置し標高60メートルから160メートルの山麓の傾斜斜面上にあり、遺物の散布は城山古墳群と重複して鷹尾3中腹におよんでいる。
石斧の図 吉岡昭著 摂津国芦屋郷土器時代文化研究 高坏実測図
城山古墳群
刻まれた説明文は
旭塚古墳
旭塚古墳 發掘調調査画像
2006年4月30日 城山三条古墳期発掘調査画像(許可を得て撮影)
この遺構の時期は、石の積み方から城山山頂に鷹尾城があった室町時代(16世紀)の遺構である可能性が高いと言えますが、性格など詳細はよくわかっていません。 またこの台地には 江戸時代遺構水車小屋があり大正時代まで使用されていた。
2003年 当時、この掲示があり遺構は皆無とのことでありホームページに 掲載し、調査結果と差参考文献を芦屋市へ送付したが無視されたのか何故か返信はなかった。Appleのホームページも数年後には使用できなくなり消去されていた。バックアップしていたデータから最新の画像を追加掲載し作成した記事です。
参考文献
1.芦屋市市史本編 昭和31年
2.兵庫県の中世城館・荘園遺跡 昭和57年3月 兵庫県教育委員会
3.兵庫の城紀行 朽木史郎、橘川真一編著 1998.4.20 神戸新聞総合出版社
4.日本城郭大辞典 新人物往来社 1997.6.27
5.摂津国芦屋郷土石器時代文化研究 1944年
6.八十塚・城山・三条古墳郡 芦屋市立美術館
7.芦屋市埋蔵文化財包蔵地
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