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11月, 2009の投稿を表示しています

永観堂禅林寺その2

紅葉の永観堂と親しまれている風景を混雑する人混みにまじり撮影した。パターン化された画像ではあるが今年の紅葉風景を残すことに専念した。

永観堂禅林寺

京都では紅葉の永観堂と愛称で親しまれているが聖衆来迎山無量寿院禅林寺が正式な寺名である。永観堂は第7世法主永観律師にちなみ呼ばれている。 禅林寺は先祖を祀るお寺は浄土宗西山禅林寺派永観堂禅林寺が本山であると聞いている。先祖の詳しいことは全く不明であるが何故か親しみが持てるお寺である。 多宝塔や本堂を取り入れて撮影している。さらに以前は境内は自由に入れたにもかかわらず最近は1000円の拝観券がを要した。団体旅行が多いのかウィークディとは言え人の多さに驚かされた。 永観堂のホームページをのぞいて見ると同じような画像を撮影しているようだ。

真如堂(真正極楽寺)と金戒光明寺

真如堂ではどうしても同じアングルになってしまうのは仕方がないのであろうか。拝観が始ま ると同時に訪れることがてきれば本堂や塔を取り込んだ画像も可能であろうか。 京都映画誕生の碑 1908年京都で映画造られ100年を経過した。牧野省三が第一作「本能寺合戦」を撮影した真如堂に2008年10月この像が建立されたと刻まれている。 京都では撮影所も少なくなり寂しくなったが日本映画の原点はやはり京都であることは忘れることはできない 。 真如堂境内を人混みを避けながら何度も歩きあまり人の訪れない光明寺の三重塔を撮影した。此の寺は浄土宗の大本山、承安5(1175)年法然上人が比叡山の黒谷を下り草庵を結んだ浄土宗寺院のはじまりとなった寺である。 幕末の文久2(1862)年に徳川幕府は新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。会津藩主松平容保は京都守護職として黒谷の金戒光明寺へ1000名の武士が宿坊等に布陣した。歴史のある寺である。御所や小倉山そして山崎付近まで一望できる要の地であったことから本陣となった。また新撰組もここで結成された。

真如堂(真正極楽寺)

京都市左京区にある天台宗の寺院で鈴聲山真正極楽寺通称真如堂と呼ばれている。お寺に久しぶりにでかけた。広い境内が埋まるかと思うほどの人で賑わっていた。しかし紅葉は見栄えも優れずお寺の人に聞くと今年は期待出来ないですね。とのことであった。 今日ここでようやく紅葉の風景と巡り会うことができた。原則として人はいれないために本堂や三重塔が撮影出来ないのは残念だった。 観光バスもタクシーも出入りしている。かっては訪れる人の少ないお寺であったのが信じられない。

露天神

大阪駅前第三ビル38階より眺めた露天神、桜が咲いているところで高層ビルに囲まれているが近松門左衛門の「曾根崎心中」上演以来お初天神として親しまれている社である。 「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身にたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の。鐘のひびきの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり」 と七五調を駆使して歌いあげられた名文で知られる舞台てある。 1687(元禄16)年4月17日曾根崎心中は堂島(曾根崎)新地の遊女お初と醤油屋の手代徳兵衛が義理のしがらみと友人の不実で身動きが出来なくなり手に手をとって梅田堤を道行きをし天神の森で心中した実際に存在した事件を取り上げた人形浄瑠璃である。 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。 曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。 この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。 と記録されている歴史のある神社である。 狭い境内ではあるが北の飲食街に似合わないほっとさせられる空間である。

丹波三山円通寺

先日、気の合った人で集う会があり嵯峨野観光鉄道トロッコ列車に乗車しトロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅を往復したが今年は見ごろの箇所も少なく燃えるような紅葉は見られずまったく期待外れだった。 だがその後の時間は広沢の池畔での食事は秋の味覚がいっぱいで酒の飲めない私も楽しいひとときを過ごすことができた。 この日少し歩いたが渡月橋も嵐山も小倉山も紅葉は驚くほど少なくなかった。昨年は嵐山高尾パークウエイーの展望台から小倉山を下山し錦繍の紅葉を満喫したが今年の京の紅葉は見られないのであろうか。 丹波三山の紅葉は見るかげもなく青葉が多く見ごろの紅葉は少なかった。かろうじて晴天に恵まれて円通寺のヤマモミジを撮影した画像を代わりにアップした。 不動明王、苔の上の不動明王は地中より発掘されたという。信長の焼き打ちの際に崩壊し地中に埋もれていたのだろう。 厄除け鍾馗 水琴窟

仁王像

丹波の岩屋山石龕寺の開基は古く聖徳太子が587年(用明天皇丁の年)とされている。 仁王門の仁王像は1242年(仁治3年)仏師定慶の作で国の重要文化財に指定されている。風格ある仁王像はこの寺の格式を物語っている。 福知山線谷川駅の近くにある。

丹波三山の紅葉

母の葬儀も終わり所用を兼ねて丹波三山の高源寺、円通寺そして石龕寺を訪れた。前夜来の強風と強雨のため紅葉らしき風景は見られず時折残る数株の山紅葉がかろうじて残っている程度であった。天候不順なのか物足りなく新聞等の情報に裏切られた古寺巡りであつた。 円通寺 室町時代の1382(永徳2)年足利義満が創建した寺で曹洞宗の名刹で信長の丹波攻めの際、焼き打ちを免れた唯一つのてらである。と伝えられている。 境内を巡り撮影したが紅葉は少なかった。 自宅かに舞鶴自動車道を利用すれば90分程度であるので明年を期待したい。 高源寺の紅葉。 天目楓の名所と知られている。古い山門と楓の写真を期待したがすでに落葉し変色し見る影もない景観であったことはは寂しい。

携帯カメラ

法善寺横丁

法善寺横丁は、大正期において、芝居や浄瑠璃の人気で賑わう櫓町(今の道頓堀筋)の陰で飲食街が急激に発展する。 大正時代のロマンを尋ねて夜毎 この界隈を歩いた、織田作之助や長谷川幸延らの小説で、また芝居や映画、歌謡曲にと数知れず紹介され、法善寺・法善寺横丁の名前は 広く日本中に知られるところとなる。 織田作之助文学碑 正弁丹吾亭前。旧中座の火災で類焼し、往時のまま復元された正弁丹吾亭という店の前に建立されている。 作之助は随筆『大阪発見』で法善寺横町界隈を大阪らしい風情だと書いている。碑文は「行き暮れてここが思案の善哉かな」と刻まれている。 火災のあと、地元の方々は横丁の面影を懐かしみ、復元に奔走した。今はその面影を取り戻し石畳みの道は優しい。 酒を飲めない私には無縁ではあるがここを通るとき心が安らぎ道頓堀の賑わいか嘘のように思う。