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3月, 2008の投稿を表示しています

新保陣屋

元治元年(1864)12月11日、今庄から木の芽峠を越えてこの地へやってきた水戸天狗党の武田耕雲斎はこの陣屋で2週間800名の武士とともに逗留しましたが幕府に投降し350名が斬首されています。その2年後に幕府は崩壊しています。 陣屋の内部は耕雲斎が滞在した時の雰囲気が今も残されており市の文化財となっています。

街灯

株式会社六麓荘が昭和6年に竣工した際の会社のマークが飾られた 街灯が現在も使用されています。 Rokurokuso-cho Ashiya

甲山88箇所石仏巡礼第30番

百々山東明院善楽寺 本尊阿弥陀如来 開基弘法大師 高知県高知市 恒武天皇の大同年間(806~810)に一の宮(土佐神社)の別当寺として、弘法大師により建立された。土佐一の宮の別当寺には、神宮寺もあり、もとはこの寺が四国霊場第三十番札所だったという。 明治初期の神仏分離令により、一の宮は土佐神社となり、善楽寺と神宮寺は廃寺となり、本尊の阿弥陀如来や大師像など全ての寺宝が国分寺に預けられた。 明治9年(1876)に、善楽寺と神宮寺より早く復興した安楽寺に、菅原道真の菩提寺として本尊を移し、四国霊場第三十番札所として公認された。

毘沙門天

旧山陰本線の清滝川近くに祀られています。角倉了以の大堰川開削工事と関連があるものでしょうか。 現在も鉄道関係者により丁重に祀られています。

街角にて

散策すれば瀟洒な建物が目につく。車で通り過ぎるだけではわからない小さなことも気づく。おりに降れ取上げていきたい。

白露地蔵尊

旧西国街道に面した白露地蔵尊です 芦屋市で最も古く延享2年(1745年)の銘が彫られています  

動輪碑

新幹線0系の車輪とと蒸気機関車C57・9600形式の動輪が新大阪駅に1984年(昭和59年)10月より展示されています。

甲山88箇所石仏巡礼第59番

金光山最勝院国分寺 本尊 薬師如来 開基 行基 愛媛県今治市 聖武天皇の勅願により、国家安穏・五穀豊穣・万民豊楽を祈願して一国に一寺建立された国分寺の一つで741年 (天平13年)に、行基が開基した。 七堂伽藍を備え他の国分寺に比べ豪壮な巨刹であった。

一津屋水門ゲート

摂津市の一津屋で淀川から分岐し、農業用水、水運に使われてきた神崎川は東淀川区相川で安威川と、淀川区加島付近で猪名川と合流、西淀川区で左門殿川・中島川・酉島川と分岐し大阪湾へと流れ込んでいるが、かっては神崎川は淀川水系とまったく別の水系であった。 785年奈良時代末期に和気清麻呂の手で、長岡京遷都に伴って瀬戸内海を直接結ぶ目的で淀川と直結させる工事が行われ神崎川が掘削された。

大阪駅

江口の里

西行塚と君塚 江口の里寂光寺 早春の一日、かって繁栄した河川交通の要であった江口の里を訪れた。ハイパー堤防に遮られかっての面影はまったく残されていないが、人に尽すという行為に裏付けされた行基をはじめとする人間の知恵が残されていた。

酒蔵風景

春の訪れ

宮水

天保8年(1837年)桜正宗の六代目蔵元であった山邑太左衛門(やまむらたざえもん)が摂津国西宮、現在の兵庫県西宮市久保町で発見したとされています。 山邑太左衛門は西宮と魚崎(現神戸市東灘区)で造り酒屋を営んでいたが、双方で造る酒は、他の工程をすべて同じにしても味が異なっりました。西宮で造る酒の良質な味の原因について、彼は『同地にある梅ノ木蔵の「梅ノ木井戸」の水にある』と結論しました。これ水質の差を知ることが「宮水の発見」とされました。 当初、「西宮の水」と言っていたが、やがて略されて「宮水」と呼ばれるようになりました。 梅の木井戸はこの、宮水発祥の地の柵内にあれます。 毎年秋には宮水まつりが開催されます。 宮水運搬車 西宮で生産される清酒は灘五郷全体の4割です。西宮市の中南部の一角には、いまでも灘の酒造メーカーの井戸場が集中しており、各酒造会社専用の井戸からさかんに汲み出されています。 この久保・石在両町にまたがるわずか三百メートル四方の周辺には、第二次世界大戦に酒蔵の大半を焼失し、鉄筋ビルの近代的な酒蔵もありますが、震災で倒壊したましたが復元させ昔ながらの面影を残す酒蔵が今も残り、独特の情緒をかもし出しています。

傀儡師

傀儡師(かいらいし)故跡。産所といわれ平安末期に傀儡師、木偶まわしや人形まわしなどと呼ばれ地方巡回興業しました。室町時代に産所の地に住み着き西宮神社のお札をもってえびすかき、えびすまわしという人形芸で全国的に有名となり、その後発展して文楽人形浄瑠璃へと発展しました。江戸末期の1850年頃には衰退して姿を消してしまった。 阪神間のみではないが、古くは縄文、そして弥生、古墳時代と飛鳥や奈良時代にさかのぼる遺跡が多くあります。平安、鎌倉、戦国時代はそうめずらしくない。江戸期のものではでは新しいものとしか見られない。 だが行財政等は自滅してしまっていますが。この地が多くの人から好まれるのはそのような歴史の重みがあるからでしょうか。

甲山88箇所石仏巡礼第38番

蹉陀山補陀落院金剛福寺 高知県土佐清水市 本尊三面千手観音菩薩 弘仁13年(822)に、嵯峨天皇より補陀洛東門(ふだらくとうもん)の勅額を賜った弘法大師が、足摺岬を訪れ千手観音を感得し、自ら刻んだ三面千手観世音菩薩を安置して開基しました。

宮水庭園

宮水・酒蔵地帯に酒造会社3社の協同で「宮水庭園」が修景整備されています。 戦前ノ西宮音頭は酒の町西宮をこんな風に歌いました。今次の敗戦直前に酒蔵の大半が焼失し、さらに技術革新が酒造りを大きく変え、鉄筋コンクリートの酒蔵の出現で酒の町の風情も変わりました。 しかし灘の銘酒のいのちともいえる宮水は変わることなく狭い区域の宮水地帯に湧きそれぞれの井戸場からくみ出されて灘の酒蔵に送られています。 この水は、昭和60年環境庁選定の日本銘水百選に選ばれています。 昭和29年に西宮市長を会長とした「宮水保存調査会」が発足。周辺住民の協力も得て、宮水の使用用途の限定、節水、水脈や水質、水量の定期的な採水調査など、あらゆる保全対策を講じています。また鉄道や高速道路建設・公共土木工事などに対して事前・工事期間中、さらには事後にわたり、地下水への影響に対して綿密に調査し、宮水の保存に努力しています。

八軒家浜

船宿が8軒あったことから八軒家と名付けられたこの場所は三十石船の発着所でした。 天神橋と天満橋の間、南岸一帯は古くからの船つき場で、窪ノ津とも渡辺ノ津とも言われていました。 平安時代には京から四天王寺、住吉、熊野詣への旅立ちの船着き場でした。 最近八軒家浜として一部復元されています。 江戸時代には八軒の旅宿があり八軒家と呼ばれ、京と大坂を淀川で結ぶ三十石船といわれる30人乗り川船が往来し、伏見から八軒家まで11里1丁(約43.3km)余りで、その所要時間は上りで約12時間、下りは夜半伏見を出て翌朝八軒家に着いていました。

蕪村碑

「菜の花や月は東に陽は西に」のモニュメントのような句碑が大阪・茶屋町アプローズ敷地に建てられています。茶屋町一帯は江戸時代には菜の花の名所として知られ、大坂生まれの蕪村は、現在の茶屋町付近を念頭にこの句を作ったとされています。

秘境駅

都市圏の新型電車が走る線区ですが福知山線武田尾駅は秘境駅の面影があります。

菊水山駅

2005年3月26日に営業廃止となりました都心に近い秘境駅でした。

秘境駅

保津峡駅。この駅は京都市内にあるとは信じられない静かな駅です。

須磨駅

曲線の多い海の景色が美しい区間です。 風景写真で空の抜けのよい陰影のある時間にめぐり合えることは少なくこれも撮影技術の一端ではないでしょうか。

甲山88箇所石仏巡礼第6番

温泉山瑠璃光院安楽寺 本尊 薬師如来 徳島県板野郡上板町 弘法大師がこの地を訪れこの土地は、人々を病疫から救う薬師如来と深い因縁で結ばれていると感得し安楽寺谷に堂宇を建立し薬師如来坐像を刻み本尊として安置し開基したと伝えられている。 かっては温泉のある寺として親しまれていたが兵火により焼失し移転した。 神呪寺の石仏には珍しくコンクリート製の上屋が設けられています。

八十塚橋

六甲東山麓に古墳が残され保存されています。橋の名称も古墳の名前がつけられています。作りの美しい橋です。 Rokurokuso-cho Ashiya

明治の遺産

谷崎潤一郎「細雪」に掲載されている「まんぼう」です。利用者が多く煉瓦の壁面が塗装され当時の面影は残されていません。 近くにある硬敷岩架道橋は、建設当時の構造がそのまま残されて明治の遺産を見ることが出来ます。 当初は単線の鉄道でしたが明治末にはこのような架道橋とりました。

呉川遺跡刻印石

1970年初頭までこのあたりは海岸でした。後方の芦屋浜高層住宅は昭和54年(1979年)に完成しています。 1987年に道路改修工事で発見された徳川大坂城築城石です。このあたりから石材のを搬出する船着場と推定されています。 この刻印石は出雲松江藩の刻印が確認されています。 Kurekawa-cho Ashiya

春の訪れ

久し振りに岡本を訪れその時の印象です。

甲山88箇所石仏巡礼第12番

摩盧山性寿院焼山寺 本尊 虚空蔵菩薩 徳島県名西郡神山町 大宝年間(701~704年)に、修験の祖役行者小角が山を開き、蔵王権現を祀り庵を結んだのが開基といわれている。標高938メートルの焼山寺山八合目付近に位置するこの寺は、四国霊場札所中一番の難所とされ修験道の修行地としても知られている。

多聞ビル

国道43号線のそばにある風格のあるビルです。1928年(昭和3年)建設のビルですが西宮銀行、八馬汽船本社として使用されました。 このような建物もいずれ取り壊されるのでしょう。 このビルは宮水の湧出する場所のそばにあります。

甲山88箇所石仏巡礼第56番

金輪寺勅王院泰山寺 本尊 地蔵菩薩 愛媛県今治市 弘仁6年(815年)、弘法大師がこの地を巡錫しているとき、梅雨のため蒼社川が氾濫し、大師は村人達と共に、川原に壇を築き土砂加持の秘法を七座厳修した。その満願の日に延命地蔵が空中に現われ地蔵尊を刻み本尊として一寺を建立し安置し泰山寺と名付けられた。 山号の金輪山は山の名前で、当初はこの山の山頂に建てられてが天長元年(824年)に、淳和天皇の勅願所として七堂伽藍も建立し、塔中十坊を有する大寺であったが、度重なる兵火で寺運は衰退しその後、現在の場所へと移された。

邸宅

旧山邑家住宅 兵庫県芦屋市にある、灘五郷の造り酒屋・櫻正宗の当主山邑太左衛門の依頼でアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライト (Frank Lloyd Wright) が設計した個人住宅(山邑邸)である。竣工は1924年(大正13年)である。芦屋川畔の山手の市街を一望できる高台に建っている。第二次世界大戦の空襲により社長公邸が焼失したため昭和22年1947年から山邑家から別邸を購入し淀川製鋼所が、社長公邸や独身寮などとして使われた。 工夫された窓の配置、部屋のつくり細かい所に快適さが追求されている家である。 ライトが設計した建築物としては日本に完全な形で現存する唯一の作品で、その価値の高さから1974年、大正時代以降の建造物として初めて、かつ鉄筋コンクリート建造物としても初めて国の重要文化財に指定された。 1989年から淀川製鋼所迎賓館(ヨドコウ迎賓館)として一般公開されている。 阪神大震災では被害を受けたが貴重な遺産として保存するために大谷石等を用いて本格的に修復されているため訪問する人は多い。