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3月, 2009の投稿を表示しています

神戸海岸ビルヂング

乙仲通りではなく海岸通りに面して建てられているが、乙仲通りから煉瓦の造りがビル蔭になっていても目立っている。 旧日濠会館と使用された。 この建物は、1911(明治44)年兼松商店(現:兼松)の兼松房治郎により建てられた。外装には花崗岩が使われているが、裏は煉瓦造りとなっている。 文化庁の登録有形文化財に指定されている。 石造りの階段と海岸ビルヂングの名前が似つかわしい。現在は、設計事務所、法律事務所のほかブティック、ギャラリー、雑貨店、カフェなどに使われている。日没後は外観ライトアップされている。 石造りの天井も高い不思議な空間だ。そして戦災にも一部が会い震災にも耐えてきた造りとこのデザインに惹き付けられるのであろう。

乙仲通

神戸の栄町通りから、筋ひとつ2号線の小さな路地は、かっては通りの名はなく誰ともなく乙仲通り」と呼ばれていた。 乙仲(おつなか)とは、海運貨物取扱業者(海運業者)の通称である。 最近では見かけなかった標識がある。 かつては港の貨物取引の仲介業者が集まっていたからである。 今でも「株式會社」「合資会社」などの表示が未だに残る路地のあちこちに、ビルの空室や倉庫を利用して、ファッションやバー、エスニック雑貨など、若い経営者が個性を生かした店が次々と誕生している。愛想のない建物と手作りの店の組み合わせ、ブティックやカフェの立て看板が並び、おしゃれな若者が歩いている。ビルの中に入ると古びた壁に囲まれた瀟洒な店が多い。 現在では、旧居留地の歴史的なビルを再利用したファッション街も、港に関連した産業資産の活用例だろう。そうした例に比べると、乙仲通りの変貌(ぼう)は大資本や行政の都市計画にかかわりがない点でユニークな町おこしであることを歩いて感じさせてくれる。元町通りや三宮センター街と異なり若い人の集まる街となっていくようだ。

熊野街道 高津宮

仁徳天皇を主神とする神社であるが熊野古道や熊野街道の郡戸王子の場所と推定されている。古典落語「高津の富」の舞台にもなった高津宮は上方落語に登場するのは道頓堀からも近く人が集まり文化の中心として賑わっていた。 人が集まり文化が高まる。昔からそんな役割を高津宮神社が担っていたのです。

京都御所花の散策

池塘と糸桜 出水の糸桜、平日にもかかわらず三脚が30台近く砂利の道に陣取っていた。それにも関わらず 通行の邪魔にもならないのに驚く。 雲に覆われてチャンスは巡ってこなかったのが残念ではあるが形も整い清楚な桜だと気にいった。 西園寺邸跡の白雲神社。御所の弁天さんの名で親しまれている。 また、後に内閣総理大臣となる西園寺公望が明治2(1869)年この地にて開いた私塾立命館は現在の立命館大学となった。 木蓮と御所塀

里山散策

久しぶりに六甲山の前山の城山の散策を楽しんだ。コバノミツバツツジは日当たりのよい斜面に咲いているが3分咲く程度で桜の満開の時期には楽しめるだろう。 藪椿と高座の滝を切り取ってみた。 芦屋川の桜は寒のもどりで月末頃には見頃となるようだ。

京都御所の糸桜その2

春爛漫なのかと錯覚されるほどの花の宴を見ているようだ。染井吉野などの桜はまだつぼみ吹く風もどこか冷たいが、暖かい日差しはそれを忘れさせてくれる。芝生の上で弁当を広げてのんびりする人も多い。 弁当をかって私もゆっくり食べようと眺めながら近衛邸跡の糸桜を撮影した。

京都御所の糸桜

近衛邸跡の糸桜、枝垂れ桜で京都では早咲きの桜として知られている。訪れた日は天候にも恵まれて多くの人が訪れていた。京都では短い期間に山桜など多くの花が楽しめるので歩くだけでたのしいものがある。 桃花も見頃で楽しく過ごすことができた。

甲山88箇所石仏巡礼第37番

藤井山五智院岩本寺 本尊 不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩 開基 行基 高知県高岡郡窪川町 天平年間(729~748)に、聖武天皇の勅願により行基が開創した。 行基は天の七星を象徴した仁井田七寺を建立したと伝えられている。 弘仁年間(810~824)には、この地を来錫した弘法大師が、さらに五社五ヵ寺を建立し、先に行基が建立した七ヵ寺と併せ、これを仁井田五社十二福寺と称した。

道路工事

道路橋より地下トンネルに住民運動により改良されたが景観にも行政は配慮するという初歩的なものの考え方が必要だ。 それにしても3月はどこを走っても道路工事が花盛りだ。いつまでも同じことを繰り返すことを止めようとする意欲はないのだろうか。

五社稲荷大神

化粧品会社の本社敷地にあり十二軒町の由来がこの境内に掲げられている。 そして境内は整備され清潔で佇まいはこのましいことこのうえんないものがある。 このあたりは大坂城三の丸で大坂城台勤務の役人の居宅があった。明治に入り十二軒町と改称された。と記載されている。 この五社稲荷大社もその頃から祀られ現在もビルに囲まれても続いているのだろう。

阪神武庫川駅

武庫川の上にホームと駅舎のある珍しい駅である。2002年に近畿の駅100選に選ばれている。 武庫川線に連絡する渡り線で武庫川信号場として位置づけられている。武庫川線への車輌が進出入している。

大仏鉄道

1897(明治30)年に名古屋〜加茂間を開通させた関西鉄道株式会社は、名古屋から奈良への観光客の誘致を図るため、加茂〜奈良間に木津を経由しない新線の建設を始め、明治31年には加茂〜大仏間8.8㎞、明治32年には大仏〜奈良 間1.1㎞が開業し、加茂〜大仏〜奈良間全長9.9キロメートル の大仏鉄道線が開通したが1907(明治40)年11月に廃線となり遺構が現在にも残り関西本線の電車が走行している。

船溜まり

兵庫の新川河口の作業船と中央市場風景で港の雰囲気がある岸壁を散策したが、年度末なので工事中のため立ち入り禁止が多かった。

阪神武庫川線その2

武庫川線ホーム 引き上げ線に留置されている車輌 ワンマン対応まのため改造された7861系 東鳴尾駅に入線。朝夕の時間帯にこの駅で行き違いする。 東鳴尾駅ホーム 洲先駅

阪神武庫川線

武庫川は阪神高速、国道43号線は車で通過するが、阪神武庫川線というローカル電車区間があり撮影することにして黄砂のたなびく日だったが出かけた。黄砂という生やさしいものでなく汚染物資と粉塵だと思うほど眼に痛みを感じた。がなんとか撮影できたようだ。 終点の武庫川団地駅。武庫川駅から1.7㎞5分の運転時分。 かっては川西航空機の工場があったがその面影は全くない。 阪神電鉄の歴史によれば、戦時中の武庫川・洲先間1.7キロメートルが1943年に開通した。 その後鳴尾浜の川西航空機工場への国鉄西宮駅からの軍事輸送路線として開通させたが1845年戦災で休止し1948年に武庫川・洲先間1.1㎞を復活運転した。蒸気機関車が走る貨物線は1958年に廃止されたが武庫川団地が再開発され再び元の洲先駅まで600メートル延伸され武庫川団地駅前間が開通した。 甲子園球場から1.5㎞ほど東の武庫川西岸を2両連結の阪神カラーの車両がのんびり走る風景ではあるがかっては軍事鉄道路線として突貫工事で建設された戦争の申し子のような鉄道である。