2019年7月31日

大阪橋めぐり 土佐堀川 越中橋

下中之島の橋では越中橋が最も古く、橋の北詰に肥後・細川越中守の蔵屋敷があったことからこの名前が付けられたと想像される。また南詰めには播磨藩の蔵屋敷があった。橋は明暦期(1655~1658)の地図にもすでに画かれ、江戸時代初期には架けられていた。



昭和4年に橋梁形式は三径間ゲルバー式鋼鈑桁橋、20.5m、29.0m、20.5mのスパン割を持ち、幅員は7.5mの橋が完成した。
だが西大阪一帯の地盤沈下は戦後になってさらに拍車がかかり、台風時の高潮によって大きな被害を受けることになった。このため越中橋も嵩上げの必要が生じたが、嵩上げ高が3.5mにもなるため橋を歩行者専用とし、階段で取り付けるように変更され、幅員も3.8mに縮められ工事は39年に完成している、
蔵屋敷が建ち並んでいた時代は思い浮かべることができないが由緒ある橋も歩行者専用の橋として名称のみ継承されている。
NikonD600 AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED



2019年7月30日

奈良の古刹 法相宗喜光寺 蓮華








蓮と石仏そして塔頭等奈良でのみ撮影可能な夏の景色です。暑い日でしたが素晴らしい日本の風景に誘われて滞在し続けました。
NikonD600AF-S  NIKKOR24-70 f2.8GED


2019年7月29日

奈良の古刹 ロータスロード 法相宗喜光寺 






蓮華の撮影も今年は西大寺と喜光寺のみとなってしまいました。唐招提寺と薬師寺と計画していましたが何かとはしっていましたが所用が重なり処理案件もおおくあきらめざるを得なかったようです。
蓮は7月はじめから着手することが望ましいようです。

ニコンD600    AF-SNIKKOR24-70F2.8GED

2019年7月28日

喜光寺 本堂阿弥陀像と四天王像


 奈良大学で解体修理されていた四天王像から墨書が発見され、菅原寺(喜光寺)に安置された仏像であると判明し、2019年に特別公開が行われています。
約150年ぶりの里帰り公開となり、その際に参拝しすることができ大変貴重な機会となりました。堂内は撮影可能でありお賽銭を供え参拝後撮影させて頂きました。
喜光寺は行基菩薩ゆかりの寺として知られ、古くは「菅原寺」と呼ばれていましたが、748年に聖武天皇より「喜光寺」の寺号を賜りました。行基菩薩は東大寺造営に当たり、喜光寺の本堂を参考にされたという伝承から「試みの大仏殿」とよばれています。
今回里帰りした四天王像は本堂に祀られていた仏像です。四天王像は行基菩薩御作とされ仏堂の四方を守る役目を担い、邪気を踏み一般的には憤怒の形相をしています。
今回展示されている四天王像は、かつて額安寺(大和郡山市)に伝来し、その後奈良大学に移されていました。寺伝では額安寺の四天王像は菅原寺(喜光寺)から移されたとされており、今回はその寺伝が正しいことが証明された事になります。
 明治時代国家施策により神仏分離令により喜光寺は廃寺寸前にまで荒れ果てて四天王像もその頃額安寺に移されたとされています。神仏分離令で貴重な仏像が廃棄や焼却処分されたことは日本各地で記録に残されています。白洲正子氏の古寺巡礼の著作では大和の地を歩くとその頃は池にも小川にも無数の仏像が放置されていた。と歴史を記録されています。丹波の山寺では飛鳥時代や奈良時代の作だろうか中宮寺 木造菩薩半跏像(国宝)広隆寺 木造弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)国宝の似た仏像が安置されていた。廃仏に抵抗した人々が密かに山中に保存し戦後しばらくして掘り出した仏像とのことでした、朽ち果てた仏像もありましたが1000年以上も保存されていたとは思えない品格のある穏やかな仏像でした。時代の流れととは言えこのような愚挙を国家がなせねばならなかったのか不思議でならない。現代でも同じような破壊行為が世界各地で行われてはいますが歴史は繰り返すのでしようか。
 150年ぶりに本堂の里帰りした四天王像は持国天・増長天・広目天は平安時代末期〜鎌倉時代初期の作風が、多聞天は鎌倉時代初期の作風が見られ、江戸時代には少なくとも3度の大規模な修復作業が行われています。今回の解体修理では広目天・多聞天の像内から江戸時代に書かれた「菅原寺」の墨書の他、「行基大菩薩御作」の墨書も見つかっています。行基大菩薩御作と書かれているものの実際には行基菩薩の活躍した奈良時代に作られた仏像ではありませんが、「行基大菩薩御作」と書かれた江戸時代には伝承で行基菩薩が作ったとされていたものと考えられます。行基菩薩ゆかりの寺ならではの伝承とも言える確証となっています。
いかなる愚かな治世者が場当たり的に存在しても知性と叡智に満ちた人間の創造した歴史は消し去ることができない証のようだ。








観光施策で最も人気のあるの寺院とのことです。貴重な文化財ということより人々が長年信仰し続けて現代に残った仏像をこのようにして復元して将来に残せる人の叡智に蓮の撮影に訪れて知らされて感動させられました。


2019年7月27日

梅川の像 冥途の飛脚 近松門左衛門 JR尼崎駅iPhonePhotoGraph




二ヶ月に一度ですが、尼崎駅前の都市ホテルの会議室で会議があり午後、この梅川の像を眺めながら会場へと向います。
ときおり思い出したように撮影することもありますがほとんどこの像の前が待ち合わせ場所なのか座ってスマホー操作していますので撮影は遠慮していました。
近松門左衛門の曽根崎心中、心中天の網島、女殺油地獄等の浄瑠璃作品を読み続けています。文学者ではないので非常に難解な作品ですが日本の文学としては表現も人物描写も語彙も豊かで素晴らしい作品だと感じいっています。
冥途の飛脚は、大坂経済を背景にした世話物です。正德元年(1711年)大坂竹本座で初演された。物語は大坂の飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は遊女梅川に馴染み友人八右衛門と張り合うために封印切の大罪を犯し梅川とともに郷里大和の新口村(現在の橿原市)に逃げて実父と別れ
告げるが捕らわれる。という筋書きです。
浄瑠璃や歌舞伎の作品に脚色されて現代も演じられています。

2019年7月26日

大阪橋巡り 玉江橋  堂島川





玉江橋は大江橋や渡辺橋と同様に、元禄期の堂島開発によって架けられた橋である。この時、古代大坂に架けられていたとされる堀江橋の名前で復活され後に玉江橋と変更されている。
 玉江の由来は、『中之島誌』によると、欽明朝のころ堀江で美しい玉が見つかり、堀川戎神社の御神霊としたが、その場所を玉江と呼んだという縁起から命名したとされている。
 江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝院という薬師堂があり、縁日には大層賑わった。と記録されている。

2019年7月25日

芦屋鉄道紀行 打出村踏切 75レ EF65-2074



久しぶりのEF65です。所要を済ませ急いで踏切まで急ぎ撮影しています。国鉄時代の数少なない機関車はそれなりに見応えがあります。

2019年7月23日

大阪橋めぐり  田蓑橋 蛸の松  土佐堀川

 田蓑橋は元、禄時代、堂島開発によって架けられた橋の一つである。それぞれの橋には大坂に古くから伝えられた由緒ある橋の名や歌枕として有名な地名などから採って付けられたが、田蓑は古代の大阪にあったとされる八十八島の一つ、田蓑島に由来する。とされている
 



蛸の松
橋の周辺は各藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。南西側にあった広島藩の蔵屋敷の塀際には、蛸の松という姿の良い松の巨木があり名所として親しまれていたことで復元され植樹されている。


2019年7月21日

奈良の古刹 ロータス・ロード蓮の寺 喜光寺 








蓮の寺喜光寺です。南大門と本堂そして石仏と蓮の華は日本の寺院の原風景を感じさせられての撮影でした。花の撮影にふさわしい薄曇りの日差しにも誘われ長居ししまいました。