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奈良 法相宗喜光寺  高僧行基と蓮の寺

奈良時代の高僧、行基菩薩が養老5年(721)に創建した。東大寺大仏建立のための布教活動の拠点とした寺とされている。
また、行基菩薩はこの寺で入滅した。本堂は、東大寺造営の際の大仏殿の雛型として建てられたとの伝承から「試みの大仏殿」と呼ばれる。蓮の名所として知られ、6月中旬~8月中旬には250鉢の蓮が境内を華やかに彩られます。
 南大門は、戦国時代 元亀年間の戦乱で焼失してしまい、創建当初の姿は伝わっていません。さらに追い打ちをかけるように明治元年(1868)、明治政府の「神仏判然令」は仏教に大きな影響を与え、一部では「廃仏毀釈」と呼ばれる排斥運動も起きました。残念ながら喜光寺も、僧侶が還俗して神職になったことをきっかけに、喜光寺と天満宮は分離され、喜光寺の文化財は売られてしまうという憂き目に遭いました。その後、修理復興もかなわず、明治・大正・昭和の時代は荒れ果てて廃寺寸前のありさまになってしまったのです。
 しかし、平城遷都1200年にあたる平成22年(2010)に南大門が再建されています。奈良の西の玄関口にふさわしい威容をほこり、正面の扁額には「喜光寺」の文字が輝いています。
 南大門をくぐるとき吽形態と阿形態の仁王像は仁王像。南大門の落慶にあわせ文化勲章受章者 中村晋也氏により制作、奉納されました。大地を踏みしめ、人の悪心を憎む憤怒の姿は、門をくぐる人々を守護してくれているようです。。


南大門


阿形像

吽形像


本堂室町時代 正面五間 奥行四間 高さ17.1m
行基菩薩が東大寺建立に先だって、本堂を建立したという伝承から「試みの大仏殿」とよばれています。行基菩薩が寺史乙丸から寄進された場所が現在の本堂の場所であると伝わっています。
 奈良時代の本堂(金堂)は明応8年(1499)に焼失し、天文13年(1544)に再建されました。縮小しての再建ではありますが、「南庇(なんぴ)」や「裳階(もこし)」といった建築技法は奈良時代を意識した復古建築の粋というにふさわしい建物です。
 上層の四方には連子窓をつくり、光を取りこむという新しい技法が取り入れられています。春秋の夕暮れには西側の窓から夕陽がさしこみご本尊を照らす、素晴らしい風景にであえるかもしれません。
阿弥陀如来坐像(国重文)平安時代 木造 像高2.33m
 現在のご本尊は阿弥陀如来をお祀りされていますが、創建時のご本尊は諸説あり判然としません。ご本尊の阿弥陀如来坐像は、いわゆる丈六仏とよばれる大きな仏様です。金箔の多くは剥落し、光背も大きく破損していますが、慈悲深い仏像には時代の尊さを感じさせます。穏やかな表情や流麗な衣文は定朝様とよばれる平安時代の代表的な姿です。
脇侍
勢至菩薩坐像  南北朝時代 木造 像高1.62m
観世音菩薩坐像 南北朝時代 木造 像高1.64m
造立時期は定かではありませんが、大きな本堂にふさわしい威容をあらわします。また趺坐を組み、半跏にして足先をみせるのが特徴的です。穏やかな表情で、施無畏与願の印を組んだ仏像です。
本尊と脇侍は、スピードライトは使用できませんが通常撮影では可能とのことでお賽銭を上げ撮影サせていただいています。




石仏
喜光寺には室町後期から江戸末期にかけて約150体の石の仏様が祀られています。石像は表情ゆたかで、昔の人びとの思いがいきづいているようです。蓮と石仏がよく似合う喜光寺です。
喜光寺における蓮の栽培は約20年前から開始されたものですが、現在では「奈良」の「蓮」と言えば「喜光寺」というほどに有名になっています。
私も今回で三度目でした。







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