スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2021の投稿を表示しています

藤原宮跡から香具山散策

藤原宮跡から香具山                      香具山登山口                   畝傍山と二上山展望                                          国常立神社                    天香具山神社 麓から香具山展望 藤原宮跡訪問後、大和三山の香具山登山を楽しんだ画像です。 あいにくの曇天で見晴らしも良くなかったのですが雨も予想 され頂上からの畝傍山と二上山と藤原宮跡展望を楽しみ國常立神社に 参拝後天香具山神社に参拝後帰途につきました。少しですが万葉集に 詠まれた景観を楽しむことができました。天候の良い日に再訪 したいものです。

キバナコスモスと耳成山 藤原宮跡

     藤原宮跡大極殿跡からのキバナコスモスと大和三山の耳成山です。   大型機械で工事中のためアングルに工夫しています。  

コスモス 藤原宮跡と畝傍山

藤原宮跡のコスモスと大和三山の畝傍山です。畝傍山はすでに 登頂済みですがコスモスの咲く頃に訪れたのははじめてでした。       コロナ禍と気候不順のためか今ひとつの感をもたらせました。

アンネのバラ アンネのバラの教会

甲東園駅近くに所用があり近くの秋咲きのアンネのバラを楽しみに立ち寄りましたが気候不順で10輪近くの開花でしたが10月のアンネのバラとして記録するため撮影した画像です。毎年春と秋には訪れていますので来年度はしっかり撮影したいものです。  

コスモス 藤原宮跡と香具山

  久しぶりに訪れた藤原宮跡です。コスモスと大和三山を撮影する予定でしたが車窓から金剛山地の二上山が見える頃にわかに雲が多くなり曇天となってしまった。藤原宮跡で急いで撮影した画像です。

芦屋藤ヶ谷遺跡 石器時代・弥生時代の遺跡

 自宅近くには、旧石器時代の遺跡そして縄文時代の朝日ヶ丘遺跡さらには八十塚古墳と  岩ケ平遺跡と古墳時代と六甲山南麓の芦屋市域に人類が居住した痕跡が遺跡調査で記録  されています。今後、さらに調査したいいものです。  今回取り上げた藤ケ谷遺跡の痕跡は一切残っていないのですが、発掘調査資料、現地調  査資料を紐解き学ぶことができました。  現在は集宅地として人口の少ない市ではあるのですが人類史上で芦屋市域は大阪湾に接  した阪神間の中心として繁栄していたことも教えられました。                      芦屋神社     紅野芳雄著「考古小録」には「猿の宮(芦屋神社)」の北方の小池の西畔所在の石器     時代遺跡として登場し、吉岡昭による「芦屋市遺跡地帯地図」では藤ケ谷遺跡」     として發掘調査されている。さらに猿の宮神社の北方の池の背後の山地からは弥生        式土器・石鏃、石錐 磨石。サヌカイトが出土している。     藤ケ谷遺跡の西には笠ケ塚遺跡がありその遺跡とつながっていたということも考えせ       れるとされている。     自宅近くであり芦屋市の山手でよく散策する地であり人が住み出したのは石器時代や     弥生時代かと教えられた。現在は住宅地となり記録文書のみとなっているが・・・         芦屋神社の南方標高80メートル地点の高台に8世紀の律令期に遡る官人たちの墓域があ      った。藤ケ谷という地名が残っているこの台地からは、阿呆親王塚、金津山古墳、打出    小槌古墳を見渡せる場所で、かっては、6〜7世紀の群衆墓が設けられていた。下記の芦    屋市にただ一つ残存する芦屋神社境内に残る横穴式石室古墳はその一つであるとされて    いる。    最近(2007年)の發掘調査では、この土地から火葬施設や火葬灰を埋めた穴、納骨した骨      蔵器(墓)がまとまって発掘された。    奈良時代、日本列島に導入された火葬墓は、律令国家の厳しい規制のもとに営まれたご      く限られた階層の人々の墓である。と「養老喪葬令(ようろうそうそうれい)」に定められ    ている。この付近は住宅地として開発され全く当時の面影はないが発掘された石器や土    器、遺物と発掘調査資料でのみ知ることができるのみである。    この墓地は

弥生時代 の遺跡 田能遺跡  

                 円形竪穴式住居                  方形竪穴式住居  大阪空港着陸点、撮影ポイントの千里川土手の近くにある2400年前から約700年近く居住した弥生時代の遺跡です。資料館も併設され発掘された遺物が展示されていたます。この付近には石器時代や縄文時代の遺跡もあり一万年以上前から人類が生活していたことが考えられます。麻でしょうか織り機も發掘され衣類も復元されています。3センチ程度の碧玉に6mm程度の穴があけられ50センチメートルを超えるネックレスも発掘され展示され壺や高坏そしてお皿なども見られます。銅剣の鋳型もあり青銅器も鋳造していた遺跡もあり鉄器も使用されて相当高度な生活であったことが伺われます。真夏のような10月でしたが久しぶりに訪れた田能遺跡で2000年前の社会を偲ぶことができた1日でした。

芦屋鉄道紀行 さくら夙川・芦屋駅間

 外出自粛もあり鉄道写真はストック画像から掲載していたのてずが 晴天に誘われレンズを向けました                   62レ EF210−135                                                          2073レ  EF210−134                  2072レ EF210ー−112                     2072レ 221系 阪神間の運用から外れるとのことで可能な限り撮影しています。

芦屋鉄道紀行 5064レ

ストック画像からの掲載です。外出自粛と雨天が多く出かけることもなく画像を整理して 見つけた画像です。これから鉄道写真撮影できるのでしょうか。  

戦国時代の芦屋の山城 鷹尾城.城山遺跡,城山南麓遺跡の記録

    戦国時代の山城 芦屋鷹尾城          鷹尾山を望む  ロックガーデンピラーロック跡から撮影 鷹尾城築城                                      京と西国を結ぶ交通の要衝として阿波の細川澄元の上洛を制圧できること。.肥沃な灘郷 を支配下におくことによって経済基盤の安定が得られること。が考えられる。 築城時期は記録されていないが、1511年(永正11年8月10日)赤松勢により、鷹尾城は落城し城主正頼は城を明け渡し伊丹城に退去しているので、この頃に城が存在したことは確かである。鷹尾城構築の際、本庄衆と用水権をめぐる抗争の記録によれば「鷹尾城の外堀をほれ樋にしてかくへし」(瓦林正頼記)にあるように外堀を掘ることによって用水路が遮断されることを意味している。    現在も芦屋に残る東川用水路跡から、芦屋川の河原毛堰堤の上部から引かれた水が遠く本庄へと流れていたことを確かめることができる。当時、暮らしのために芦屋川の水や山の資源が欠かせないものであった。本庄九ヶ村は三条、津知村を含み構成され、芦屋庄の芦屋村と打出村とは、争いが絶えない時代で、築城により本庄衆の水の確保が困難になるために阻止することが大きな原因であったのだろう。   記録によれば、1555年(天文24年)芦屋庄が西宮と本庄に持山を横取りされたと三好長慶に訴え抗議のため逃散し5年後に山の権利を取り戻したが、その後も争いが絶えず山争いの決着がついたのは、1749年(寛延2年)に芦屋庄が勝訴し解決した。   外堀は山麓の平地部に掘られた外溝で用意に常の居住する山麓の城郭に近づけないようにしたものであるり、硬い山肌を深くえぐって現在の山芦屋町の町中を流れ芦屋川に注ぐ高座川を外堀とし川底を深く掘り広げれば芦屋川からの水の流れは遮断される。        瓦林正頼記(続群書類従)によれば、「正頼ハ豊島里ニ常ノ宿所ハ在ナカラ、城ナクテハ叶フマシトテ四里西ニ武庫山ノ尾崎難太ノ内、鷹ノ尾ヲ城郭ニソ構ラレケル」とのみ記録が残っている。   芦屋鷹尾城は、芦屋川と高座川の渓谷に挟まれた標高260メートルの山頂の尾根上に築城されていた。比高差は約170メートルとなっている。その山城の構造は、尾根筋に沿ってくの字型の細長い縄張りを持ち、頂上部は8~9メートルの大堀切によって3区画に分割され