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露天神 曾根崎心中 近松門左衛門 


元禄16年(1703年)4月7日、醤油屋平野屋の手代・徳兵衛と天満屋の遊女・おはつが、大坂・曽根崎の天神の森で心中した。近松は直ぐにこの事件を浄瑠璃とし近松最初の世話ものとして誕生した。上演は事件の一ヶ月後であった。

 

道行きの名文として知られる曾根崎心中の原文とともに現在にのころ文学周遊の道行きを歩いた。



近松門左衛門は、
フシ此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬たとふれば。スヱテあだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそフシあはれなれ。
ワキあれ数かぞふれば暁の。七つの時が六つなりて残る一つが今生の。鐘の響ひゞきの聞納。太夫寂滅為楽二人ハルと響ひゞくなり。
鐘斗かは。草も木も空もなごりと見上ぐれば。雲くも心なき水のおと北斗はさえて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも。我とそなたは女夫星。
地必ず添ふと縋すがり寄り。二人が中に降る涙 フシ川の水嵩もまさるべし。フシ向ふの二階は。何屋とも。おぼつか情なさけ最中にて。まだ寝ねぬ火影声高く。ヲドリ
今年の心中よしあしの。言の葉草や。茂るらん。太夫地聞くに心もくれはどりあやなや昨日今日までも。余所に言ひしが明日よりは 我も噂の数に入り。世に歌はれん歌はば歌へ フシ歌ふを聞けば。
「歌二人どうで女房にや持ちやさんすまい。いらぬものぢやと思へども」。 
太夫地げに思へども歎けども身も世も思ふまゝならず。いつを今日とて今日が日まで。心の伸びし夜半よはもなく。
思はぬ色に苦しみに。どうした事の縁じややら。忘るゝひまはないわいな。」
それに振捨て行かふとは。やりやしませぬぞ手にかけて。殺しておいて行かんせな。放ちはやらじと泣きければ」。
太夫地歌も多きにあの歌を。時こそあれ今宵しも。ワキうたふは誰たそや聞くはわれ。二人過ぎにし人もわれわれも。一つ思ひと縋すがりつき スヱテ声も惜まず泣きゐたり。
いつはさもあれ此の夜半。せめてしばしは長からで心も夏の夜の習ひ命を追はゆる鳥の声こゑ明けなば憂しや天神の。森で死なんと手を引きてオクリ梅田
〽堤の小夜烏
フシ明日はわが身を。餌食ぞや。太夫誠に今年はこな様も廿五歳の厄の年。私も十九の厄年とて。思ひ合ふたる厄祟り縁の深さのフシ印かや。
地神や仏に掛置かけをきし現世の願を今こゝで。未来へ回向し後のちの世もなをしも一つ蓮ぞやと。爪繰つまぐる数珠の百八に スヱテ涙の玉の。数添ひて フシ尽きせぬ。あはれ尽きる道。
二人フシ心も空も影暗く風しんしんたる曽根崎のフシ森にぞ。辿り着きにける。



道行きの段に記載されている梅田橋跡
「恋風の身に蜆川流れては、その虚貝うつヽなき、色の闇路を照らせとて、夜毎に燈す燈火は、四季の蛍よ雨夜の星か、夏も花見る梅田橋 」
の面影はない。『曽根崎心中・天満屋の段』より
堂島3丁目付近蜆川は埋め立てられ道路となっている。中央部の蜆川跡の道路は曾根崎新地へと向かっている
堂島新地は蜆川の両岸に位置していた。その南を流れる堂島川沿いには江戸時代当時蔵屋敷が建ち並び船運も多く大坂の物流の中心地であった。人の往来も多く堂島新地も賑わった。跡地は、高速道路も通じ道路も整備されホテルやオフィスビルが建ち並び現在も繁栄している。





露天神 お初天神

 都心のビルに囲まれて当時の面影は全くない神社であるが露天神社の社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。とあり大阪でも古い神社である。
最近はほとんど訪れる機会は少なくなったが仕事を終えるとこの付近の料理屋やスナックに飲み屋にと下戸にもかかわらず良く通ったものである。何度も通ったふぐ料理は美味だった記憶がある通りを歩いても当時の店が残っている懐かしい思いだ。



元禄16年(1703)大坂竹本座で上演され当時の人々の間で大評判となり、当神社にも参詣回向の老若男女が大勢押しかけたといわれています。
涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が訪れています曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されましす。
現在の小説にはない硬質な描写があり現代にも通う人間が描写されている何度読んでも素晴らしい作品である。

天神の森の段では
 かしこにかこゝにかと払へど草に散る露の我より先にまづ消えて。定さだめなき世は稲妻かオクリそれかあらぬか
アヽ怖。今のは何といふ物やらん」。「ヲヽあれこそは人魂よ。今宵こよひ死するは我のみとこそ思ひしに。先立つ人も有りしよな。地誰にもせよ死出の山の伴ひぞや。色南無阿弥陀仏。地南無阿弥陀仏」の声の中。
「あはれ悲しや又こそ魂の世を去りしは 色南無阿弥陀仏」といひければ。女は愚に涙ぐみ。「今宵は人の死ぬる夜かやあさましさよ」と涙ぐむ。男涙をはらはらと 流し。
二つ連つれ飛ぶ人魂を余所の上と思ふかや。まさしう御身と我が魂よ」「地何なう二人の魂とや。はや我々は死したる身か」。「ヲヽ常ならば結び止め繋ぎとめんと歎かまし。今は最期を急ぐ身の魂のありかを一つに住まん。道を迷ふな違ふな」と。
抱いだき寄せ肌を寄せ スヱテかつぱと伏して。泣きゐたる。 フシ二人の心ぞ不便なる。涙の糸の結び松。棕櫚の一木の相生あひおひを。連理れんりの契りに準なぞらへ露の憂身の置所。「サアこゝに極めん」と。
上着の帯を徳兵衛も初も涙の染小袖。脱いでかけたる棕櫚しゆろの葉のオクリその玉箒はゝき今ぞげにフシ
浮世の塵を。地 払ふらん初が袖より剃刀かみそり出し。「もしも道にて追手おつてのかゝり割れ割れになるとても。
浮名は捨てじと心がけ剃刀用意いたせしが。望みの通り一所で死ぬるこのうれしさ」と色言ひければ。 「ヲヽ神妙頼もしゝ。さほどに心落着くからは最期も案ずることはなし。さりながら今はの時の苦患にて。死姿見苦しと言はれんも口惜しゝ。
此の二本ふたもとの連理の木に体からだをきつと結ひ付け。潔いさぎよう死ぬまいか世に類たぐひなき死様しにやうの。手本とならん」「いかにも」とあさましや浅黄染。かゝれとてやは抱帯かゝへおび両方へ引張りて。剃刀取つてさらさらと。「帯は裂けても主様ぬしさまとわしが間あひだはよも裂けじ」と。どうど座を組み二重三重ゆるがぬやうにしつかと締め。
「詞よふ締まつたか」。「ヲヽ締めました」と。 地女は夫の姿を見男は女の体を見て。「こは情なさけなき身の果てぞや」とスヱテわつと泣入る。ばかり也。
「アヽ歎かじ」と徳兵衛。顔振上げて手を合はせ。「我幼少にて誠の父母に離れ。叔父といひ親方の苦労となりて人となり。恩も送らず此のまゝに。亡き跡までもとやかくと。
御難儀かけん フシ勿体もつたいなや。罪を許して下されかし冥途にまします父母には。追付おつつけ御目めにかゝるべし スヱテ迎へ給へ」と泣きければ。お初も同じく
お初も同じく手を合はせ。
「こな様さまはうらやましや冥途の親御に逢はんとある我らが父様母様はまめで此の世の人なれば。いつ逢ふことの有るべきぞ便たよりは此の春聞いたれ共。
逢ふたは去年の初秋の初が心中取沙汰の。明日は在所へ聞えなばいかばかりかは歎きをかけん。親たちへも兄弟へもこれから此の世の暇乞いとまごひ。せめて心が通じなば夢にも見えてくれよかし。なつかしの母様や名残惜しの父様や」と。
しやくり上げ上げフシ声も。惜しまず泣きければ。夫もわつと叫入り。流涕りうてい焦がるゝ心意気理ことわりせめてあはれなれ。
地色いつ迄言うて詮もなし。はやはや殺して殺して」と最期を急げば「心得たり」と。脇差わきざしするりと 抜放し。「サア只今ぞ南無阿弥陀南無阿弥陀」と。言へどもさすが此の年月いとしかはいと締めて寝ねし。
肌に刃やいばが当てられふかと。眼もくらみ手も震ひ弱る 色心を引直し。取直してもなほ震ひ突くとはすれど切先は。あなたへ外れこなたへ逸れ。二三度ひらめく剣の刃。
あつとばかりに 咽笛に。ぐつと通るが「南無阿弥陀。南無阿弥陀南無阿弥陀仏」と。刳り通し刳り通す腕先も。弱るを見れば両手を延べ。断末魔の四苦八苦。オクリあはれと
〽言ふも余り有り。
「我とても遅れふか息は一度に引取らん」と。剃刀取つて咽のどに 突立て。柄も折れよ刃も砕けと刳ゑぐり。刳くり刳くり目もくるめき。苦しむ息も暁の フシ知死期ちしごにつれて絶果たえはてたり。
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏 色疑ひなき恋の手本となりにけり。 

と、苦界に落ちた可憐な遊女と義理と人情に悩み苦しんだ男と女の運命を描写する近代文学の傑作である。





曾根崎  北新地風景

江戸時代には曾根崎新地を少し外れると狐狸が住むような裏寂しい光景が展開していました。お初と徳兵衛は、新地から離れて、梅田墓や狐塚などを遠目に見ながら、曽根崎の森の中に入っていきました。




堂島川の水晶橋 - 大江橋間より北へ分岐し、北新地の新地本通と堂島上通を両岸に西流し、堂島大橋 - 船津橋間で再び堂島川に合流していた。別名の蜆川の呼称は、堂島蜆が多く取れたことに由来する。難波小橋、蜆橋、桜橋、出入橋、梅田橋が架かっていた。
貞享・元禄年間に河村瑞賢によって河川改修が行われ、1685年(貞享2年)に堂島新地(左岸)、1708年(宝永5年)に曽根崎新地(右岸)が拓かれ、米市場や歓楽街として発展した。
近松門左衛門の『曾根崎心中』や『心中天網島』にも登場する。1909年(明治42年)にキタの大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、1924年(大正13年)には下流側も埋め立てられて消滅した。




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