情熱的な作品が多いと評される歌「みだれ髪」や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名である。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立した。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やわ肌の晶子」と呼ばれた。
妙国寺南の府立泉陽高校の中庭には、この「君死にたまふことなかれ」の碑がある。前身の堺高等女学校が晶子の出身で、脚本家の橋田寿賀子や、女優として活躍する沢口靖子の母校でもある。
戦時中にここで女学校時代を送った橋田寿賀子は暗い時代だったと回想し晶子は、戦前戦後も地元堺での評価はきわめて低かった。今でいう不倫、略奪婚、情熱という名の裏返しの非道徳的な女の歌人という一方的な評価がなされていた。
そして戦後もそれは続く。昭和40年代に、中庭に詩碑を建てるときも強く反対され「同窓会有志」としてでしか建てられなかったという。明治時代には国策により盆踊り禁止令や姦通罪等の愚策により取り締まられた時代であっても晶子の作品は文学として認められていたにもかかわらずだが・・・・・・
その後、与謝野晶子を主人公に「千筋の黒髪」と田辺聖子が昭和47年に執筆し晶子を主人公の作品が発表されると見事に豹変して現在では堺市内のあちこちに歌碑や晶子の像や生家跡の碑そして文学館も設立されて称賛されるようになった。そして2015年(平成27年)3月には堺市の異人として「さかい利晶の杜」という豪華な施設が建設された。
晶子の生涯をみると、常人には計りしれない創作力に驚かされる。11人の子供に恵まれ家事育児に忙しい毎日を送りながら女性を中心にした即興短歌の会を主宰し作歌活動を続けた。少女時代に憧れた源氏物語への情熱も衰えず、現代語訳を三度も手掛けている。生涯に詠んだ短歌は約三万首という。晶子が残した膨大な作品に、創作への情熱と生き様がみてとれる。そして寺社等には歌碑があちこちに建立されている。
与謝野晶子は鳳 晶(しょう)。大阪堺に生まれる。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。二十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)、4月に鉄幹が『明星』を創刊すると同誌で歌を発表した。8月に初めて鉄幹と会い恋心が爆発、翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集『みだれ髪』(6章399首収録)を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子23歳、鉄幹28歳。女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた『みだれ髪』は一大センセーションを巻き起こした。
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう
「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」
みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす
彼女は封建的な旧道徳に反抗したことで伝統歌壇から批判されたが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け、『若菜集』の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称された。
それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にトルストイがロシアロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で『明星』9月号にこう応えた。
『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが生粋の国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。
日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる。
この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と再度猛烈な批判にさらされた。大町桂月も「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子はこれに反論すべく『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表、“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と全く動じることはなかった。弾圧されることなく議論できる成熟した社会がかっての明治時代には存在していたことは知って頂きたいものだ。
晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集『恋衣』に再度「君死にたまふことなかれ」を掲載する。その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加、「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くした。また、文学者としては短歌だけでなく、『新訳源氏物語』を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残した。
1930年代に入って満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年に国家の思想統制についてこう書き残した。「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです」
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の水の明りにしたためし 永き別れのますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である戦嫌ひのわたしさへ今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の官製詩歌を作っているのもこの時代に生きるためなのだろう・・・・・・。
明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし(鉄幹は57歳の時に先立つ)、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年(昭和17年)に63年間の人生を終えた。
明治、大正そして昭和と激動の時代に愛に生き文学に幅広い分野で活躍し数多くの作品を日本文学史上に残し夫と「明星」の経営をやりくりは北原白秋、石川啄木を育て家庭では賢母として生きた与謝野晶子を文学周遊として取り上げてみました。
君死にたまふことなかれ
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末(すゑ)に生れし君なれば
親のなさけは勝(まさ)りしも、
親は刄(やいば)をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四(にじふし)までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事(なにごと)ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出(い)でまさね、
互(かたみ)に人の血を流し、
獣(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人の誉れとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何(いか)で思(おぼ)されん。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君に
おくれたまへる母君は、
歎きのなかに、いたましく、
我子(わがこ)を召され、家を守(も)り、
安しと聞ける大御代(おほみよ)も
母の白髪(しらが)は増さりゆく。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月(とつき)も添はで別れたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰(たれ)を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
戦時中にここで女学校時代を送った橋田寿賀子は暗い時代だったと回想し晶子は、戦前戦後も地元堺での評価はきわめて低かった。今でいう不倫、略奪婚、情熱という名の裏返しの非道徳的な女の歌人という一方的な評価がなされていた。
そして戦後もそれは続く。昭和40年代に、中庭に詩碑を建てるときも強く反対され「同窓会有志」としてでしか建てられなかったという。明治時代には国策により盆踊り禁止令や姦通罪等の愚策により取り締まられた時代であっても晶子の作品は文学として認められていたにもかかわらずだが・・・・・・
その後、与謝野晶子を主人公に「千筋の黒髪」と田辺聖子が昭和47年に執筆し晶子を主人公の作品が発表されると見事に豹変して現在では堺市内のあちこちに歌碑や晶子の像や生家跡の碑そして文学館も設立されて称賛されるようになった。そして2015年(平成27年)3月には堺市の異人として「さかい利晶の杜」という豪華な施設が建設された。
さかい利晶り杜
晶子の生涯をみると、常人には計りしれない創作力に驚かされる。11人の子供に恵まれ家事育児に忙しい毎日を送りながら女性を中心にした即興短歌の会を主宰し作歌活動を続けた。少女時代に憧れた源氏物語への情熱も衰えず、現代語訳を三度も手掛けている。生涯に詠んだ短歌は約三万首という。晶子が残した膨大な作品に、創作への情熱と生き様がみてとれる。そして寺社等には歌碑があちこちに建立されている。
与謝野晶子生家跡碑
与謝野晶子は鳳 晶(しょう)。大阪堺に生まれる。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読する文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。二十歳頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)、4月に鉄幹が『明星』を創刊すると同誌で歌を発表した。8月に初めて鉄幹と会い恋心が爆発、翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集『みだれ髪』(6章399首収録)を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子23歳、鉄幹28歳。女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた『みだれ髪』は一大センセーションを巻き起こした。
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
熱くほてった肌に触れず人生を説くばかりで寂しいでしょう
「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす」
みだれ髪を綺麗に結いなおして朝寝するあなたを揺り起こす
彼女は封建的な旧道徳に反抗したことで伝統歌壇から批判されたが、愛に根ざす人間性の肯定は民衆から熱狂的な支持を受け、『若菜集』の島崎藤村と共に浪漫主義文学の旗手と称された。
それから3年後の1904年(26歳)、日露戦争の最中にトルストイがロシアロマノフ王朝に向けて発表した戦争批判が日本の新聞に掲載され、敵国国民の反戦メッセージに深く感動した晶子は、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟に呼びかける形で『明星』9月号にこう応えた。
『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。その3連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが生粋の国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。
日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる。
この反戦歌は発表と同時に、日露戦争に熱狂する世間から“皇国の国民として陛下に不敬ではないか”と再度猛烈な批判にさらされた。大町桂月も「晶子は乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と激しく非難したが、晶子はこれに反論すべく『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表、“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえで
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。当節のように死ねよ死ねよと言い、また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、危険思想ではないかと考えます。歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」と全く動じることはなかった。弾圧されることなく議論できる成熟した社会がかっての明治時代には存在していたことは知って頂きたいものだ。
晶子は非難に屈するどころか、翌年刊行された詩歌集『恋衣』に再度「君死にたまふことなかれ」を掲載する。その後も女性問題や教育問題などで指導的活動を続け、1911年(33歳)には日本初の女性文芸誌『青鞜』発刊に参加、「山の動く日来(きた)る。(中略)すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」と賛辞を贈ってその巻頭を飾り、43歳で文化学院の創設に加わり自由教育に尽くした。また、文学者としては短歌だけでなく、『新訳源氏物語』を始めとした古典の現代語訳にも多くの著作を残した。
1930年代に入って満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍国化が進み、日増しに言論の自由が奪われていく中で、晶子は1936年に国家の思想統制についてこう書き残した。「目前の動きばかりを見る人たちは“自由は死んだ”と云うかもしれない。しかし“自由”は面を伏せて泣いているのであって、死んでしまったのではない。心の奥に誰もが“自由”の復活を祈っているのです」
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の水の明りにしたためし 永き別れのますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である戦嫌ひのわたしさへ今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の官製詩歌を作っているのもこの時代に生きるためなのだろう・・・・・・。
明星派の歌人として生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし(鉄幹は57歳の時に先立つ)、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年(昭和17年)に63年間の人生を終えた。
生家跡の歌碑
海こひし潮の遠鳴りかぞえへつヽ少女となりし父母の家
覚王寺
その子はたちくしにながるヽくろかみのおごりの春
本願寺堺別院
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ
堺駅西口駅前広場
ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲明治、大正そして昭和と激動の時代に愛に生き文学に幅広い分野で活躍し数多くの作品を日本文学史上に残し夫と「明星」の経営をやりくりは北原白秋、石川啄木を育て家庭では賢母として生きた与謝野晶子を文学周遊として取り上げてみました。
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