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小説火垂るの墓誕生の地 文学碑とアンネのバラ


火垂るの墓誕生の地の記念碑は6月に除幕式が施行されました。昨年8月から火垂るの墓誕生の地記念碑の建立に参画し10年近く前までホームページを立ち上げていましたがその後休止していましたが再び火垂るの墓記念碑の募金活動に参画し文学散歩や野坂昭如の文学論や作品の魅力等の原稿を作成しWEBにアップしました。
当初寄付金募集について低調でしたが地道な運動を継続した結果、1500名近くの団体や個人の多くの方の800万円の基金が寄せられて令和2年6月7日に文学碑が建立されました。払込取扱票通信欄より寄せられたメッセージの一部を紹介させて頂きますと、
「海外にいると平和の大切さが強く思われます。この記念碑は、様々な苦痛を生み出す戦争という愚かな人災を二度と起こさぬよう皆が心に留めおく大切な道しるべだと思います。建立にご協力下さった皆様に厚くお礼申し上げます。女性」、「段々と薄れていく今、貴重な歴史を後世に残してください。男性」、「この映画を観たとき、他人事とは思えない気持ちで見ました。私たちもあの空襲のとき逃げ惑いました。いつ、野坂少年になっていたかも知れません。ご苦労様です。多少ですがお使いくださいませ。女性」と平和を願う方々から数多くの声を頂いていいます。
 文学碑の台座は、本を二冊重ねたデザインで丹波篠山さんの鉄平石が敷き詰められ、副碑として野坂昭如の略歴、野坂昭如の戦争体験の陶板画が設置されています。
 主碑は、公園と近くの石材店から提供された今では二度と手に入らない六甲山系産の50年前にてないれた谷本さん貴重な御影石「さくら御影」が使用されています。
 

文学碑主碑の陶板画です。作品ではニテコ池下池の畔で洗濯をし水浴びをして過ごしたと描かれています。


主碑の背面には、
野坂昭如著「火垂るの墓」その舞台となったこの地に、戦後875年を経て、なお戦争の悲惨さを語り継ぎ、現在と未来の子供たちへの恒久平和を祈念します。
                      2020(令和2)年6月7日建立
                           火垂るの墓記念碑建碑実行委員会
と刻まれています。
この記念碑は、阪急甲陽線苦楽園口駅から徒歩約10分です。西宮震災記念公園の一角にあります。是非御出でください。


副碑陶板画 野坂昭如略歴
野坂昭如 1930.10.10〜2015.12.9
神奈川県鎌倉市に生まれ神戸の貿易商の養子となる。1945.6.5神戸大空襲で養父が死亡した。西宮市満池谷に疎開。その体験をもとに「火垂るの墓」を執筆した。1968年「アメリカひじき 火垂るの墓」で第58回直木賞を受賞した。
1975年「戦争童話集」を刊行
1997年「同心円」で第31回吉川英治文学賞を受賞。
2002年「文壇」およびそれに至る文業で第30回泉鏡花文学賞を受賞。
2015年 13年に及ぶ闘病の後永眠 享年85歳。



副碑陶板画 野坂昭如の戦争体験
 そや、蛍捕まえ蚊帳の中に入れたら少し明るなるのとちゃうか(中略)朝になると、蛍の半分は死んで落ちせさ日はそま死骸を壕の入口に埋めた。「何しとんねん」、「蛍の墓つくってんねん」と(野坂昭如「火垂るの墓」アメリカひじき・火垂るの墓 新潮社)の作品の一節と、
 1941年(昭和16年)12月太平洋戦争が勃発しました。次第に戦局は悪化し、1945年(昭和40年)に本格的な空襲へと広がり、多くの人々が戦死し多数の被害がありました。終戦22年後に世話になった西宮の家の家族構成をモデルしとし主人公「清太と節子」兄妹の戦争による不条理をこの小説にし、多くの人々に感銘を与えました。
と英訳された説明文とともに刻まれています。

アンネのバラと火垂るの墓文学碑

西宮「アンネのバラの教会」の「アンネの庭」一面に咲く黄金色のバラは、アンネを偲んでベルギーで作出された四季咲きの香り高いバラです。

「アンネの形見のバラ」(Souvenir d'Anne Frank 1960  Delforge)とも呼ばれ、フランク氏の庭でも大切に育てられていました。1972年のクリスマスにフランク氏より友情のしるしとして聖イエス会に贈られて来ました。

戦争で最もひどい目に遭うのはいつも子供たちだ。戦争をしたのは大人の責任でる。戦争で多くの人が餓えに泣き命を失った。

 戦争は人間を人間でなくす。戦争をしてはならない、戦争は悲しみだけを残す。と野坂昭如の最後のメッセージに込められた願いを後世に残すために火垂るの墓委員会土屋純男氏はアンネ・フランクの訴えに感動し「アンネのバラ」を「火垂るの墓誕生の地記念碑」のそばに植樹し、幼くして獄死したアンネ・フランクの、「私は世界と人類のために働きます」と、日記に書き残した思いを 後世に伝えている場でもある。
アンネのバラ






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