木ノ芽峠茶屋
北陸隧道工事安全祈願碑
永平寺を開いた道元禅師は、病気治療のために京の都に向かう途中、この峠に立って永平寺を思いながら歌を読んでいます。峠には、その時詠んだ歌の石碑が残っています。
道元禅師の歌碑の裏手には歩くことができなかった鉢伏城と観音丸砦の城跡があります。
峠の茶屋には羽柴秀吉から拝領した釜をもつ茅葺き屋根の前川茶屋です。林道を通りこの茶屋には五度ほど訪問して主の前川永運さんと親しくさせて頂きました。
頂いた名刺には、前川家は桓武平氏の後胤と教えて頂きいつも美味しいお茶を頂きました。
前川茶屋の裏手には木の芽城と西光寺丸の城跡があり、
500年前の文正元年(1466)当山に開居し士族として国境の関所としての責任者だった。とのことです。
言奈地蔵
木ノ芽峠越えは、平安時代の初めの「天長7年(830)」に開かれ、その後、明治初期まで1.000年以上にわたり、敦賀と福井方面を結ぶ幹線として使われた歴史的古道である。 標高630mの木ノ芽峠は、福井県を南北(嶺北・嶺南)に分ける境である。 平安時代、紫式部が、父・藤原為時の越前国司下向に随って越えたのはこの道と考えられる。鎌倉時代以降、永平寺開山の道元禅師や、親鸞、蓮如などの僧侶が往来した。南北朝時代には新田義貞率いる将兵が雪中の木ノ芽峠越えで凍死したと伝え、戦国時代には朝倉氏や一向一揆勢と織田・豊臣軍との戦いの舞台となった。江戸時代には「おくの細道」の旅で芭蕉がここを通って敦賀に入り、幕末には水戸浪士一行が雪の木ノ芽峠を越え、新保に着陣した。明治20年(1887)、敦賀・武生間の車道開通、同29年、敦賀・福井間の鉄道開通により、木ノ芽峠越えはその役割を終えています。
福井県は敦賀市と今庄町の問に横たわる木ノ芽山地を境にして、嶺南 、嶺北という二つの地方に区分される。木ノ芽山地は それほど高くはないものの、海岸まで、迫っているため、古来の交通をさえぎる交通の難所として知られてきた。昔から、山地をいかに越えるかは、北陸の地を行き交う人々にとって大きな問題であり、嶺南と嶺北とを結ぶ交通路には、古代から現代にいたるまで幾度もの変選があった。
第26代継体天皇(在位507年3月から531年3月)は近江国高島郷で誕生し垂仁天皇の孫振姫とともに越前国丸岡に帰郷した際にも古道を利用したとの記録もある。古代の交通路は奈良、平安時代には、都から地方へと向かう駅路が整備された。
この地域には北陸道が通じており、当初、陸道は敦賀市元比田から標高89㍍の山中峠を越えて今庄町大桐に至り、鹿蒜川沿いに谷を下った。敦賀平野から元比田までのルート は、山脚が迫る海岸部はできるだけ避け、敦賀市道ノ口から樫曲、越坂、回尻の内陸部を経由し、ウツロキ峠を越えて海岸の五幡に至ったものと考えられる 。
このルート上にある五幡と鹿蒜川の流域一帯は、大伴家持の作歌「帰廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れ吾をし思はば (万葉集)をはじめ多くの古歌にあらわれる歌枕の地であり 「何時はた帰る」に掛けて詠み込まれた 。これらの地はいよいよ山越えの難所にさしかかろうという場所であり、北陸道を行き来する往時の旅人の心を強くとらえたのであろう。
「板取宿の由来」
掲示板には、戦国時代までの越前への陸路は山中峠を越える古道(万葉道)と木の芽峠を越える北陸道(西近江路)だけであった。 柴田勝家が北の荘に封じられ信長の居城安土に赴く最短路として、天正6年(1578年)、栃ノ木峠の大改修を行って以来、人馬の往来は頻繁となり、越前南端の重要な関門の地として板取宿を置き、宿馬30頭、人足60人が常備された。 板取宿は北国街道(東近江路)の玄関口として、あるいは近江・越前・両国を結ぶ要の宿として発達したのである。江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。後に板取番所として、藩士が駐在した。 板取には幕末の頃、戸数53戸・うち3軒の問屋をはじめ、7軒の旅籠、3軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わったという。今も甲造り型や、妻入り型の茅葺の民家が昔のまま保存されているが無人で静かな山村風景が味わえる。
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