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多武峰 新緑と談山神社 本殿と拝殿 談山神社の由緒 乙巳の変


 三間社隅木入春日造の絢爛豪華な様式で知られ、社殿は全体は極彩色模様や花鳥などの彫刻によって装飾されています。藤原鎌足をお祭りするため大宝元年(701)に創建されました。現在の本堂は嘉永3年(1856)建て替えられています。日光東照宮のモデルとなった社です。
参拝してこれほど鮮やかな極彩色の社殿だったかと思いつつ背景の新緑に浮かぶ社殿をしばし座して日本の原風景にしば眺めさせられました。明治2年(1869年)に神仏分離令により僧徒が還俗。現社号に改称され、別格官幣社に列した。しかし仏教建築は現代も当社境内に見ることができるのは、明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているためである。




拝殿の回廊には春日神社と同じように 新緑の背景に溶け込むようにして数多くの形の素晴らしい釣灯籠が懸けられています。この拝殿は、1668年(寛文8年)の再建ですが回廊の釣灯籠は創建当時のものである。
回廊の下には石灯籠が建てられ歴史を感じさせられました。



この本殿の背後の山に裏山を10分ほど登った場所に談山(566メートル)(かたらいやま)がある。社名の由来となった。木立に囲まれた一角で日本書紀皇極天皇紀にあるように中大兄皇子と中臣鎌足が密談した場所である。
 飛鳥法興寺(現在の飛鳥寺)で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天武天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が西暦645年の5月に多武峰の山中に登り乙巳の変の談合をした。談山神社から法興寺まで約7キロメートルでこの時代ではそれほど遠距離でもないようです。
 多武峰縁起によれは、中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(蘇我入鹿)の暴虐をいかにせん。願はくは奇策を陳べよ。と中臣連皇子を將て城東の倉橋山の峰に登り藤の花の下に撥乱反正の講を談ず。と記されています。
 この談合により皇極天皇4年(645)飛鳥板葺宮で蘇我入鹿を討ち中央統一国家と古代政治の完成という歴史的な出来事となった。
 多武峰は乙巳の変(大化の改新はこの語に乙巳の変から名称が変更されている。)後に談峰、談山そして談所呼ばれるようになり社号が談山神社となった

NikonD600    NIKKOR AF-S24-70mm1:2.8GED

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