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大和国古寺名刹 法華寺門跡

聖武天皇の皇后である光明皇后の発願により、総国分尼寺として建立された。光明皇后の父藤原不比等の邸宅跡に建てられた。光明皇后は、藤原不比等公没後、不比等公の屋敷を皇后宮とし、その後、総国分尼寺 法華滅罪之寺とされました。その後、略称として法華寺と呼ばれるようになった。
東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となされ、『続日本記』には、光明皇后様の勧めによると記されています。東大寺を起点とした佐保路の西の端にあたる。平安遷都後一時は衰退したが、豊臣秀頼、淀君によって、慶長6(1601)年に本堂・南門・鐘楼(いずれも重要文化財)が再建された。
本堂に安置されている十一面観音立像(国宝)は、光明皇后がモデルであると伝えられている。また、本坊の庭園は国指定の名園として有名である。
参拝後庭園と境内の華楽園を散策したが(天平時代から)千二百五十年以上続く寺院で格式の高さを感じさせられました。












NikonD600    NIKKOR AF-S24-70mm1:2.8GED

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芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

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