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奈良多武峰 新緑の談山神社

社名は藤原鎌足が中大兄皇子と蘇我入鹿を暗殺するために談合をした「談い山」からとったものである。
もとは聖雲院、大織冠社、多武峰社と称した。
多武峰の山中には楼門(重要文化財)、本殿(重要文化財)、権殿(重要文化財)をはじめとする朱塗りの華麗な社殿が建ち並ぶ。漆塗極彩色、三間社春日造の本殿には鎌足像が祀られており、日光東照宮の手本になったといわれている。紅葉の名所としても有名であるが、境内を桜が彩る春、新緑の季節、雪化粧が見事な冬と季節を問わず歴史ある社殿と風景を楽しむことができる。

本殿への階段は途中まで歩くことができますが、途中から通行禁止でしたが、階段と新緑のと朱塗りの本殿は奈良の奥山でしか眺める事ができない美しい取り合わせでした。

権殿
神廟拝所

権殿

十三重塔


藤原鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、鎌足の長男定慧が木造十三重塔(重要文化財)を建てたことに始まる。弟の藤原不比等が神殿を建立し、父の像を安置したとされる。明治初めの神仏分離令後、神社だけが残った。現在の塔は室町再建で高さ17m。古塔の中では現存唯一の遺構である木造十三重は、鎌足の墓塔といわれている。

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