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紅葉の夙川風景と火垂るの墓

国道2号線夙川橋
阪神香櫨園駅 香櫨園人道橋


阪神香櫨園駅 香櫨園橋

翠橋

翠橋

葭原橋

葭原橋

浜夙川橋

野坂昭如著「火垂るの墓」の作品の背景を調べています。その際に撮影した画像です。

「火垂るの墓」はアニメそして映画、絵本化にもされて日本はもとより一部の国を除いて世界で広く読まれています。
1945年6月5日神戸大空襲で神戸はほとんど焼き払われ14歳だった野坂昭如は幼い義妹と西宮満池谷町の近くにある親類宅や防空壕で過ごした。西宮も度々の空襲に襲われた6月9日から7月31日まで親類宅にお世話になった実体験に基づいて描かれた作品です。
この作品には、御影、石屋川と一王山そして三ノ宮駅と神戸市も登場していますが、今回は満池谷ニテコ池、夙川が舞台となっている舞台を散策しました。
 
香櫨園浜(御前の浜)夙川の河口にあり、干潟として多数の鳥を見かける。かっては関西で有数の海水浴場だった。
作品では
「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただもう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」と満池谷町から出かけてきた。
香櫨園浜(御前の浜)西宮回生病院
香櫨園浜(御前の浜)
西宮回生病院
警報がでたから戻りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、機雷投下のB29が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。 
と火垂るの墓に登場している。 
2014年10月30日撮影

新築された西宮回生病院


西宮回生病院の正面玄関や診察棟が、建設から約80年が経過し、耐震性や医療設備の問題から、新病棟に建て替えられた。

同病院は1907年に創立。1921年には西洋の城を思わせる赤い屋根の旧病棟が建設された。その後、一部の建物が室戸台風(34年)で流失。玄関や診察棟などは1937年頃に建てられたとみられる。

玄関は木造平屋で、御影石の柱とドーム状の構造が特徴。「火垂るの墓」では、空襲で母を亡くした主人公の中学3年生、清太が、4歳の妹節子を安心させるため、母は回生病院にいると話す場面がある。

同病院によると、1983年に旧病棟を建て替える際、玄関と診察棟だけは残したが、建物の老朽化が進み、1995年の阪神・淡路大震災では柱の石が落下。また医療面でも最新機材が置きにくいなどの問題があり、新病棟への建て替えを決定し2016年8月に、5階建ての新病棟が完成した。

新築された西宮回生病院
最近の大きな出来事は、夙川にかってアトリエ兼用の喫茶店「ラ・パボーニ」を開き、創作活動に励んだ洋画家大石輝一氏が1930年前後の香櫨園浜周辺の「香櫨園浜」と「香櫨園浜の回生病院」の二点が、大石氏の死後妻邦子さんが切り盛りしたが阪神淡路大震災で被害を受け倒壊した。その後、邦子さんの思いを継いだ親戚の福井ひでのさんが大阪堂島で「カーサ・ラ・パボーニ」を開業され震災後夙川の店から搬出した作品も保存された。
福井さんは、大石輝一氏の作品をもっと知っていただくためにと西宮回生病院に寄贈することを提案され文学を研究されている西宮在住の二宮氏、西宮芦屋研究所の蓮沼氏と連携されて西宮回生び要因も病院の歴史を知っていただくことになる。と快諾され実現した。と神戸新聞(2019.10.21)で報じられている。
大石の絵は、病院玄関入り口に掲示されています。1930年代の香櫨園浜の夏の日差しを浴びた穏やかな海水浴場の雰囲気と西宮回生病院の欧風の近代的な建物が描かれている。

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