その歴史に少しふれてみますと、南北朝時代の貞和3年(1347年)足利幕府軍は京都に退却する際、大坂の「渡辺橋」を渡らねばならない。1万の大軍が一本の橋に殺到するのである。多くの者が川に落ちて溺れた。冬の川の冷たさは並大抵ではない。正行は軍を止(とど)め,次のように命じたという。「戦の勝敗はついた。これから全軍で溺れる兵を救出する。けが人は手当せよ」…見事な武士道の発露した。こうした美談は余り海外では耳にしない。明治期,日本が国際赤十字に加盟する際,正行のこの行為が高く評価されています。
しかし正行はその翌年の貞和4年(1348年)四条畷の闘いで弟の正時と差し違えるのである享年23歳でした。
宝筐院境内に建つ足利義詮の墓(左側)と楠木正行首塚(左側)。正行の話を黙庵禅師から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。
義詮が没すると善入寺はその菩提寺となったが、8代将軍義政の代になり、義詮の院号に因み宝筐院と改められた。
NIKON D3 AF-S VR NikkorED 24-70mmf2.8 G ED NX2
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