この公会堂は、白鶴の嘉納治兵衛の寄付金により1919(昭和8)年5月に竣工しました。当時としては近代的な3階建ての建築で文化的行事に利用されました。
1945(昭和20)年の米軍の空爆により外壁のみ残った状況で焼落ち当時の御影町の財政では修復不可能のため1950(昭和25)年神戸市と合併後の昭和28年に修復されました。1000人収容のホールはまれで長く利用されました。
その後神戸市内に国際会館や神戸文化ホールが完成し利用者は減少しましたが石屋川と国道2合線の交差する所に気品ある姿を残しています。
神戸の近代建築には船のブリッジを模して建造された建物が多くありこの公会堂もその姿が見られます。
2号線沿いの車からは眺めてはいましたが久しぶりに入館しました。
嘉納治兵衛の銅像と顕彰板が飾られています。治兵衛は白鶴美術館と灘中をも開設しています。
すり減った階段に歴史が残っています。
階段や円柱は歴史を感じることのできる構造です。なおこの公会堂は、阪神大水害にも耐えそして阪神大震災にも耐えて避難所としても使われました。阪神大震災では戦前の建物は倒壊しなかったのですが、戦後の建物は相当数倒壊したということが確認されています。この円柱や階段の造り食堂のある地下室からなるほどと思うことができます。
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