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北野工房のまち

三ノ宮駅と元町駅の間の港から山手に向かうトーアロードに面した北野工房のまちは、「神戸ブランドに出会う体験型工房」である。
「校舎の面影を極力残す事」をコンセプトに、旧北野小学校の校舎をリニューアルして1998年にオープンした。館内にはアンテノール、ゴンチャロフ、UCC、ベニール、モロゾフといった神戸ブランドの著名店が入居しており、販売を行っているほか、各店で革小物や化粧品、ピッツァ、珈琲、パン等の製作を体験できる。
三ノ宮駅、新神戸駅から15分程度で北野異人館街の近くである。




北野小学校は1908年(明治41年) に開校され、、震災後1996年(平成8年)に閉校された87年の歴史を誇る由緒ある小学校であり、校舎を保存して欲しいという要望が持ち上がっていた。
トアロード復権の拠点に、「工房のまちづくり」を提唱し神戸市、(財)神戸ファッション協会、(財)神戸市都市整備公社によって、北野工房のまちが1998年7月に誕生。
廊下や階段、駐車場になっている運動場への出入り口は学校の面影が残り懐かしい風景が見ることができる。
今回は新しいデジカメの試撮で取り込んだ。

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