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天王寺七坂の文学碑  



家隆塚(伝 藤原家隆墓)
藤原 家隆は1158~1237(保元2~嘉禎3)鎌倉時代の歌人。
『新古今和歌集』の撰者。三十六歌仙の一人。壬生中納言藤原光隆の子。幼いころから鋭敏で和歌を藤原俊成に学んだ。藤原定家と並称され二人はお互いに許し合う仲であった。侍従・宮内卿を歴任、1235年(嘉禎元)に従二位に昇進している。翌年には出家した。
定家に比べより自由闊達な歌をつくり、かつ多作で知られ頓阿の『井蛙抄』には家隆が6万首の歌を詠んだことが見えている。その歌集を『壬二集』と言い3巻から成り、他に歌論集『家隆卿口伝抄』を著している。
『千載集』や『新古今和歌集』にその歌が多数とられ、当時の歌合にもしばしば名を列ねている。後鳥羽上皇が歌の師を藤原良経に問うたとき良経は家隆を推薦している。
良経は家隆を当世の人麻呂と言ったという。家隆は後鳥羽上皇の親昵するところの歌人であった。世に壬生二位を称され享年80歳であった。
かつて大阪湾は四天王寺の西側まで迫っており、上町台地からは水平線に沈んでいく夕陽の姿を拝することができた。
1236(嘉禎2年)、この上町台地の地に夕陽庵(せきようあん)を設けるとともに、夕陽を見て極楽往生を願う「日想観(にっそうかん)」を修め、翌年正座合掌しながら往生しました。
「夕陽丘」は、この庵名に由来すると言われている。






織田 作之助文学碑

「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。と「木の都」の一説が刻まれている。



   
1996年に撮影したネガがありスキャンし掲載した。このカメラは長年使用したライカミニルックスでカメラにはほとんど関心がなくなりほとんどこのカメラで撮影していた。
ネガも残っているので整理しつつ過去の画像をアップして行きたい。




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