橘 嘉智子(たちばなのかちこ)786(延暦5)年・850(嘉祥3)年5月4日は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、別名・檀林皇后(だんりんこうごう)。
世に類なき麗人であったといわれる。呼ばれている。
橘氏出身としては最初で最後の皇后である。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)他二男五女をもうけた。
仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。盛時には12坊を数えたという。
中国の僧義空を師として禅書を学びわが国ではじめて禅が唱えられた。その面影はなくこの由緒により昭和39年に再建された寺である。
檀林皇后は嵯峨上皇の崩後も太皇太后として隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために承和の変にも深く関わったといわれる。そのため、廃太子恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている。
鳥や獣の飢を救うため、自分の死後に自らの死骸を埋葬することを禁じて道ばたに放置させ、それが腐乱してウジがわき、白骨化していく過程を絵師に描かせたという伝説がある。
嘉祥三年(850)5月4日、嵯峨院にて崩御され、皇后は遺言によって薄葬され山陵は営まれなかったという。なぜこのような生き方をされたのか祖父奈良麻呂と関連があるのか関心を持っいる。
壇林皇后深谷山陵は鳥居本一の鳥居より左の水尾路を入り込んだ深谷山の山中にある。
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