スキップしてメイン コンテンツに移動

広島平和都市記念碑 原爆死没者慰霊碑 2014

広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)
 原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)は、ここに眠る人々の霊を雨露から守りたいという気持ちから、埴輪(はにわ)の家型に設計されました。中央には原爆死没者名簿を納めた石棺が置かれており、石棺の正面には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。この碑文の趣旨は、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。
 広島市は、この碑文の趣旨を正確に伝えるため、昭和58年(1983年)に慰霊碑の説明板(日・英)を設置しました。その後、平成20年(2008年)にG8下院議長会議の広島開催を機に多言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、中国語(簡体字)、ハングルを追加)での新たな説明板を設置しました。その全文は次のとおりです。 
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
昭和27年8月6日設立
と広島市のWEBサイトに説明がされています。


調べて見ますと、中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。
名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2013年(平成25)年8月6日現在で、104冊(286,818人の名前が記帳された103冊と「氏名不詳者 多数」と記された1冊)になっているとのことです。



中央の石室には、原爆死没者名簿が納められています。この碑はまた、原爆慰霊碑とも呼ばれています。
ここも海外からの旅行客が撮影していましたがどれほど理解出来ているのでしょうか・・・・・



慰霊碑で亡くなられた方の冥福を祈り平和記念資料館には時間の都合で立ち寄ることができないのは残念だと思いつつ後にしました、
小学生たちが太田川の岸辺で語りべのの方から絵を見ながら原爆の被害を学んでいました。
 原爆ドームと広電 相生橋
画像に納めたかったのですが天候も悪く通行量も多くかろうじて一枚撮影できました。

 文学の趣味があり業界紙から文学周遊といテーマで広島の文学作品をテーマにした記事を書いたことがあります。広島で取材し資料館で図書館で調査し数編書いたことがありました。原爆をテーマにした文学作品は記憶に新しいものがあります。
 6月6日の新聞では、2015年に被爆70年ということで、詩人峠三吉「にんげんをかえせ」の原稿、歌人栗原貞子「生ましんかな」小説家・詩人の原民喜の被爆当日の様子を記録した手帳。の原稿等三点が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産への登録を申請する。との記事があり喜ばしいことだと思ったしだいです。
 戦後原爆をテーマにした作品は、「人間襤褸」大田洋子著、歌集「ざんげ」正田篠枝著等数多くありますが、文学作品のみならず原爆に関する新聞雑誌記事等は、全て隠蔽のためGHQ(連合国軍総司令部)実質は米軍のブレスコード(報道規制)により厳しい検閲を1952年まで受け、発禁処分とされ秘密出版された作品ですが現在まで残された文学遺産として後世に残すべきものです。
NIKON D3    NIKKOR 20mm 1:

コメント

このブログの人気の投稿

芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

芦屋の邸宅 六麓荘町の街並み

自宅近くにある豪邸のある町ですが訪れる機会も少なく時折散策することもありますが歩く人も少ないのですが最近は景気も上向きか改築される家が多くなって変化していいるようです。  sony   NEX-5   E18-55      F3.5-5.6   OSS     

芦屋の邸宅 六麓荘の秋

晴天に誘われて朝の散歩にと六麓荘町をぐるり一周した際の画像です。この町まで来るとヘイズもなく秋天の青空に魅せられました。しかし瀟洒な豪邸が建ち並んでいまが世代交代なのか更地になった場所もみられました。 邸宅の庭の紅葉もはじまり爽やかな青空のもとの散策でした。この町の最も高い所は標高200㍍でこの下に山陽新幹線の六甲トンネルがあります。西宮方からおよそ3.5キロメートルの位置です。自宅からおよそ50分程度で軽い散歩コースでした。  sony   NEX-5   E18-55      F3.5-5.6   OSS