2011年1月10日

大坂新町遊廓跡

徳川幕府によりわが国で最初に公開された遊廓の街新町は17世紀初めの大坂城再建時から1956年に禁止されるまで350年のにわたり花街として存在していました。
新町の揚屋では吉田屋、高島屋、茨木屋、置屋では扇屋(東・中。西)くらはしや、つちや、つの井などのありました。17世紀には遊女が2200人ということでした。伏見町から移転した瓢箪町、玉造九軒茶屋から移転した九軒町となり花街のお茶屋は武士や豪商の社交場として繁盛しました。
現在はビジネス街となってかっての面影は碑が建てられ道路標識のみに名残がのこっているのみです。

江戸時代、新町は北は立売堀南通り、南は長堀通り、東は西横堀、西は新町2丁目あたりの塀に囲まれた地域で東口大門と西口大門が開かれていました。東大門の先が西横堀川にかかる新町橋で1672年(寛文12年)に創建され船場の商店街、道頓堀を結ぶ唯一つの道路でした。一六の夜店たち戦前まで大阪の名所でした。
1962年(昭和37年)阪神高速建設工事で埋め立てられて高覧の碑のみ保存されています。

このあたりの西に道路沿いに桜堤の石垣があり、遊里の夜桜を楽しんだ。とあり近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡」に登場します。
左の句碑は千代女の句碑で
(だま)されて来て(誠)なりはつ桜
太平洋戦争により、一時行方不明となったが、先端の(だま)と(誠)が欠けた状態で発見されここに建てられています。
近松門左衛門や西鶴の浮世草子によく描かれています。
処世中村鴈治郎生誕の碑。1860年(万延元年)扇屋の一人娘妙と歌舞伎役者中村翫雀との間にできた子で、関西歌舞伎を支える初代中村鴈治郎で「心中天網島」の治兵衛を演じて「頬頬かむりの中に日本一の顔」と云われて名優です。その三男が二代目鴈治郎、長男が三代目人間国宝の坂田藤十郎は四代目です。


砂場跡
秀吉が大坂城を築城した時に大坂の各地に資材置き場が設けられたが、新町には砂類の蓄積場あり工事関係者が集まり、その人々に麺類を提供する「いずみや・津の国屋」などが開業したと古文書1584年(天正12年)に本邦麺類発祥の地として建立されました。
問長涯天文観測地の碑
間長涯は、江戸中期の暦学者・天文学者である。名は重富・宇は大業、家は代々長堀の十一屋という質屋で、通称を五郎兵衛といいました。
麻田剛立から天文学を学び、1795年(寛政7年)幕府の改暦にあたり、高橋東岡とともに師の剛立から推薦され、江戸に行って3年で寛政歴を完成させました。その功によって幕府から直参にとりたてられようとしたが、これを辞退して帰阪しました。そのため、大坂に邸宅を与えられ、苦心研究の結果作りあげた観測機をもって、自宅前の富田屋橋で天体を観測したときには、市民の通行をとめられたという。
観測機や技術は、のち伊能忠敬に伝えられ、日本地図作成に大いに役立っています。「間長涯天文観測の地」の碑は、昭和35年大阪市によって長堀川のほとりに建てられましたが、長堀川の埋め立てによりグリーンプラザ内に移されました。


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