天井川のトンネルではあるがローカル線の代表的な風景である。
かっての奈良線は、ディーゼル客車がのんびり走るローカル線であったが現在は比較的新しい電車が走り便利になり多くの人が訪れるようになった。
橘諸兄旧跡
公は天武13年(684)生 父美怒王 母県犬養三千代 敏達天皇五世の 孫 光明皇后の異父兄である 本の名は葛城王のち母の氏を賜って 橘諸兄 井手に住して井手左大臣と号す 天平10年(738)より右大臣 同15年(743)大臣となり天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の 全盛記を首班として生きた大官である
この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓への 行幸 恭仁京遷都 大仏建立開眼供養などがあった。またこの地には別業のほか 井堤寺を建立 清涼な玉川を愛し山吹
を植え続けたので 多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出し た 聖武上皇崩御翌年の天平勝宝9年(757)正月6日没す 齢74
と碑文は刻まれている。
以仁王墓
後白河天皇の第二皇子。高倉宮とも呼ばれる。「王」とは「親 王」の宣旨を受けられない皇子の称号。
以仁王の挙兵は治承4年(1180年)に以仁王(高倉宮・三条宮)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺 社に蜂起を促す令旨を発した事件。
準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸 国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。
蟹満寺
太古、このあたりに善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいました。娘は幼い頃から特 に慈み深く、常に観音経の普門品を読誦して観音様を信仰していました。ある日のこと、村人が蟹をたくさん捕えて食べようとしているのをみて蟹を買い求め草むらへにがしてやります。また娘の父が畑を耕していると蛇が蛙を呑もうとしています。
何とか蛙を助けてやりたい父は蛇に向かって「もしおまえがその蛙を放してやってくれたら娘の聟にしよう」と言ったのです。すると不思議にも蛇は蛙を放し、何処ともなく姿を消したのでした。突然のこととはいえ大変な事を言った父は、仕事も手につかず家に帰ると、ことの次第を娘に語り不本意を悔いたのでした。案にたがわずその夜、衣冠(五位を着けた紳士が門前に現われ昼間の約束を迫ってきました。困りはてた父は嫁入りの仕度を理由に三日後に来るようにと男を帰したもののどうすることも出来ません。遂に約束の日が来ました。雨戸を堅く閉ざして約束を守ろうとしない父親に腹を立てた男は、本性を現し蛇の姿となって荒れ狂います。娘はひたすら観音経の普門品を誦え、娘の父母は恐ろしさのあまり身を縮めているその時、いかにも麗しい温顔に輝く観音さまが現われ「決して恐れることなかれ汝らの娘は慈悲の心深く常に善良なおこないをされ、又我を信じて疑わず、我を念ずる観音力はことごとくこの危難を除くべし」と告げて姿を消しました。
間もなくどうしたことか雨戸を打つ爆音は消え、夜が明けてみると戸外には、ハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていました。親子は観音さまの御守護を感謝し、娘の身代りとなった、たくさんの蟹と蛇の霊を弔うため御堂を建て観音さまを祀りました。たくさんの蟹が満ち満ち恐ろしい災難が救われた因縁で建てられたので蟹満寺と名づけられ観音経の普門品を読誦していたので普門山と号されたのです。
と蟹満寺の資料は解説されている。
飛鳥時代より宇治、琵琶湖を通り若狭や越前に通じる古道があり多くの人が旅をした古道が今なお残っている。この道を歩いていると日本の原風景が未だに残っいることに感動を覚える。
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