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祇王寺 吉野窓と冬牡丹

高台寺遺芳庵は別名吉野窓の席とも言われ、吉野大夫の好みだと伝えられています。
吉野大夫は文芸に優れた人物であり、26歳の時、時の豪商灰屋紹益が身請けすることになります。しかしその幸福な生活も長くはなく、38歳にして早世しますが、先立った吉野を偲んで紹益がつくったのがこの茶室だと伝えられています。
茶室の客座側の大円窓、いわゆる吉野窓の内側には障子が建てられていますが、あけることを考えたものではなく、障子に映る円形の光に吉野大夫を偲んだ形式だとも考えられます。
吉野太夫の墓がある鷹が峯常照寺の茶席遺芳庵には壁一面の大丸窓、底辺が切れて直線の吉野が好んだという吉野窓があります。
完全な円と言うのは仏教では「仏」の悟りを示すと言い、吉野大夫は完全ではない自分を悟っていた。とされています。
窓にも仏教の教えがこめられている歴史があるのですが茶道の心得もなく味わうみとも内のですが眺めるだけでも心かせいやされる空間です。







雪の苔庭の光景を期待したのですが残念ながら初冬の風景の撮影となりました。冬牡丹が数株庭先に置かれていることでも厳しい寒さに暖かさが感じられます。

NIKON D3    AF-S  VR NikkorED 24-70mmf2.8 G    

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芦屋だんじりの歴史

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