大阪砲兵工廠化学分析場跡
1620年(元和6)からの徳川大阪城再築工事により北外曲輪、三の丸が築かれ筋状の鉄板で補強された筋金門跡で、大阪砲兵工廠当時の正門とされたましが現在は左右の石組みが残っています。
筋金門内にその内部に化学分析場(化学試験場)が現存しています。その施設で1919(大正8)年に竣工、ネオ・ルネサンス様式の煉瓦造地上2階・地下1階の建物で1998( 平成10)年まで自衛隊が利用されていたが、その後は利用されていません。
1870(明治3)年に大阪造兵司が新設され1940(昭和15)年には大阪陸軍造兵廠と改称されました。
大阪砲兵工廠は東洋一の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点で、主に火砲・戦車・弾薬類を開発・製造していました。また、鋳造・金属加工分野で最先端の技術水準を持っていたといわれ1945(昭和20)6月26日、7月14日のアメリカ空軍による爆撃では大きな被害は無かったが、8月14日午後約150機B-29の集中爆撃で工廠は80%以上の施設が破壊されその機能を失いました。
現在、大阪城公園外濠の北東側一帯は桃園、大阪城ホール、野球場、記念樹の森、市民の森等、大阪ビジネスパーク、JR西日本 森ノ宮電車区、大阪市交通局 森之宮検車場となっています。
NIKON D3 AF-S NIKKOR 24-70mm 1:2.8 GED
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