白河院並び法勝寺跡
賑わう永観堂を辞して白河院を訪れた際、タクシー観光の女性が去った私一人が廣い庭を散策した。先ほどまでの人混みが嘘のように静かだった。名の知れた処だけが混雑するため京都を訪れる知られない処を巡ることにしている。
白河院について京都市の説明を引用すると
白河院は、もと藤原良房の別荘で北家藤原氏によって代々受け継がれてきたが、藤原師実の時、白河天皇に献上され、承保二年(1075)天皇によってこの地に法勝寺が建立された。
法勝寺は、尊勝寺、最勝寺、円藤寺、成勝寺、延勝寺とともに六勝寺と総称された寺で、東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通り50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、境内には、金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。中でも池の中島の八角九重塔は壮大な高塔であったと言われている。
しかし文治元年(1185)の大地震により九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、さらに康永元年(1342)
の火災により残る堂塔も焼失した。その後、覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途をたどり、やがて廃寺となった。
とある。
白河院の前にある動物園跡に八角九重塔は高さ80メートルを超える塔が建立されていた。
現在残されている庭園と建物は、呉服業を営んでいた下村中兵衛によれ1919(大正8)年に造られたもので、1958(昭和33)年私立学校職員共済組合の所属になつている。
庭園の構成には東山の眺望を活かしつつ和館の傍らに黒松の大木を配することで敷地に与えるなどの工夫が凝らされている。
さらに樹木の特性を熟知した植栽の配置、琵琶湖疎水から引かれた水流の巧みな取り扱いなど植治による円熟の技が随所に現れており貴重なものである。と白河院庭園と呼ばれ京都市の指定名勝とされている
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