2015年2月27日

文学周遊 西鶴浮世草子の舞台 道頓堀 北浜

道頓堀 浄瑠璃 「暦」
 貞亭二年(一六八五)西鶴は、宇治加賀掾に惚れ込み浄瑠璃の世界に挑戦した作品「暦」を書いて大阪道頓堀で上演した。
 一方近松門左衛門は、竹本座で「賢女の手習い新暦」を上演したことからふたりは張り合う形になったが竹本義太夫の語りや人形の遣い方など近松が評判がよく西鶴はこの競争に敗れる。そのうえ西鶴の小屋が芝居の途中で火事になり加賀掾は京に帰るという不運な結果なった。
 


北浜 難波橋界隈
  「日本永代蔵」
    大晦日さだめなき世の定めかな
 


西鶴の生れた1642年の大坂は大坂冬の陣、夏の陣(1614ー1615)の荒廃を受けたが復興し大坂城代が置かれ、1619年以降町並みが整備されて経済都市になっていく時期であった。
 1960年以降大坂町人は飛躍的に経済力を進展させ文化的にも実力を蓄えていった。



 日本永代蔵巻一の三「浪風静かに神通丸」では神通丸という名の大船で米の商いをして儲ける唐かね屋という商人を題材にして北浜の活況を描いている。ほかにも北浜の米蔵で米俵から落ちる米を拾って金持ちになった女の話(北浜には箒の神をまつる女あり)など北浜界隈を舞台にした作品も多い。「十露盤丸雪をはしらせ天秤二六時中の鐘にひびきまさって其の家の風、暖簾吹かへしぬ。」これは繁盛する店の様子を描いた一文である。
 さらには、天道言はずして国土に恵みふかし。物に応じて跡なは。これ、善悪の中に立つてすぐなる今の御代をゆたかにわたるは、人の人たるがゆゑに常の人にはあらず。一生一大事身を過ぐるの業、士農工商の外、出家・神職にかぎらす、始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を溜むべし。
とある。

 小説では、井原西鶴が人間の欲望を肯定した浮世草子を創始し、俳諧(俳句ではない。)では、松尾芭蕉が蕉風俳諧の芸術性を高め、浄瑠璃では、近松門左衛門が義理と人情を哀切に描いた。いずれも人間性や自然を深く洞察した作品を残して近世文学の前期の黄金時代を築いた。西鶴は透徹したリアリズムで創作し近代文学のルーツとも言われている。
 作品は現代にもあてはまるというより優れた内容のものとなっているが日本語であっても理解し難いことがあるが。東京一局集中で明治の近代化教育から見失われた豊潤な文化の鉱脈が西鶴の世界にあることを気づく人は少ない。
 元禄文化について述べますと。元禄時代(1688年~1703年)には、演劇・文学・美術・学問など、様々な文化が発展しました。この時代を中心に、主に上方(かみがた、京都・大坂)で発達した町人文化を、「元禄文化」と呼ぶ。
 元禄文化を代表する人物として、近松門左衛門と井原西鶴(いはらさいかく)の名が挙げられる。
 近松は、町人を主人公として世話浄瑠璃を書いた。その多くは、大坂で実際に起こった事件を題材にしている。
 一方、西鶴の浮世草子(うきよぞうし)も人気を得ていた。浮世草子とは、主に、当時の町人の生活を、写実的に描いた小説です。西鶴の書いた浮世草子には、町人の経済状況や遊郭の様子などが、生き生きと描き出されている。『好色五人女(こうしょくごにんおんな)』、『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などの作品が有名です。
 その他、近松が作者として関わった上方歌舞伎、また浮世絵や陶芸などの美術や学問もおおいに発達した。中でも松尾芭蕉(まつおばしょう)は、「さび」などの感覚を大切にする「薫風俳諧(くんぷうはいかい)」を生み、それまでの俳諧の世界を一変させた。芭蕉は、全国を旅して回りながら、俳諧を作った。その旅についての紀行文『奥の細道(おくのほそみち)』は、名作として知られている。





 
 




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