江戸時代までは大阪市街地から離れた旧中津川沿岸に近い淀川の扇状地の野原であり、茶屋町の形成が始まったのは18世紀後半からです。
江戸時代から明治の頃、梅田の茶屋町周辺は一面菜の花畑でした。その菜の花から採れた菜種油は遠く江戸や北海道にも送られたぐらい、当時は菜種の一大産地でした。
神戸摩耶山を訪れ読んだ菜の花にかかわる与謝蕪村の句「菜の花や月は東に日は西に」の句碑がその歴史を伝えています。
1874年(明治7年)に官設鉄道が開業し、梅田停車場(現在の大阪駅)が設置されたことにより周辺の開発が本格化しています。
阪急梅田駅の高架と新御堂筋に挟まれた一帯にあたる。茶屋町の地名の由来は、池田街道筋に「鶴乃茶屋」「車乃茶屋」「萩乃茶屋」と呼ばれた茶屋があったことによります。
古びた民家のとおりに高層ビルが建設され変貌が激しくなっています。今回は、ダンボール機関車D51撮影後に古い街並みを撮影しています。
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