旧石器時代や約8000年前の縄文前期の「朝日ケ丘遺跡」と比べれば時代がかなり後になりますが、「朝日ケ丘遺跡」より更に上にある東西500m、南北1キロmの山林、邸宅内に古墳が数十基見つかっています。 かっては調査で100基以上遺っていたといわれていますが、宅地開発で殆ど消滅しています。
「八十塚古墳」の存在は、享保19年(1734)の『摂津誌』や寛政8年(1796)の『摂津名所図会』に「岩ケ平」の 山中に「八十塚」として記載されています。
これらの古墳群は6世紀後半から7世紀中頃の古墳時代後期の群集墳で 芦屋市の朝日ヶ丘町・岩園町・六麓荘町一帯だけでなく、西宮市老松町や苦楽園四番町・五番町・六番町に及んでいます。 この群集墳を「八十塚(やそづか)古墳群」と呼び、古墳群は朝日ヶ丘、岩ヶ平、老松町、苦楽園、 剣谷の5支群に区分されていまが岩ヶ平支群に数が多い。
「岩園天神」の境内にある二つの古墳は、神社の裏にあるものを「八十塚古墳群岩ケ平支群第13号墳」盛り土のない石室のみ残っています
境内の西南すなわち鳥居の前方にある 「役小角(えんのおづぬ)の石碑が建つものを 「八十塚古墳群岩ケ平支群第14号墳」と名称がついています。
八十塚古墳群岩ケ平支群第13号墳」(円墳17㍍)
岩園天神社の創建は不明ですが元禄五年(1692)の寺社改帳に「天神社、表一尺六寸、御拝有、板葺、敷地二十間に十五間、除地。是は前々より鎮座御座候へ 共勧請の年歴不分明候」(芦屋市教育委員会編『芦屋の生活文化史)と記録されています。また元禄9年(1696)奉納の石灯籠があり元禄以前には創建されていたと思われます。当時は、岩ヶ平天神社という名称でした。
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