画像 御影国民学校
「御影国民学校へ集合して下さい。上西、上中、一里塚の皆さん」清太の住む町名を呼ばれ、母も避難してるかもしれないと行った避難所の御影国民学校で火傷を負った母に巡り会うが、二日後に母は死ぬ。荼毘に付す母の遺体に標識をつけるとき、夥しい蛆がこぼれ落ちた。
一王山下の広場に掘られた直径十メートルぐらいの穴に建物疎開の棟木柱障子襖が積まれ、母の遺体は他の屍体とともに、重油をかけられてまるでもののように焼かれた。節子には母の死は知らせなかった。
画像 満池谷町 西宮のおばさんの家の舞台
母が荼毘に付された夜、かねてから母が着物夜具蚊帳を疎開させてあった、遠縁の西宮の家にたどりついた。
しばらくして、清太は我が家の焼け跡から埋めて置いた食糧を掘り出し、借りた大八車で住吉川、芦屋川、夙川と3つの川を渡って一日がかりで運んだ。遠縁の未亡人は「軍人さんの家族ばっかりぜいたくして」といいつつ、近所にお裾分けをしたりした。中島飛行機に動員されていたが休んでいた女学校四年の娘さんだけは節子を<あやす。未亡人に清太節子は次第に疎まれ、食事も差別された。
満池谷 ニテコ池
つらい生活だったが、一歩外に出ると、夜などすぐそばの貯水池の食用蛙が、ブオンブオンと鳴き、そこから流れ出る豊かな流れの、両側に生い繁る草の、葉末に一つずつ平家蛍が点滅し、手をさしのべればそのまま指の中に光が移り、「ほら、つかまえてみ」節子の掌に与えると、節子は力いっぱいにぎるから、たちまちづぶれて、掌に鼻をさすような生臭いにおいが残る、ぬめるような六月の闇で、西宮とはいっても山の際、空襲はまだ他人ごとのようだった。
画像 清太と節子が海で遊んだ舞台の回生病院の浜辺
また気晴らしと治療に「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、もう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」去年の夏までは、須磨に部屋を借りて、夏を過ごし、節子を浜に置去りにして、沖に浮かぶ漁師の網の硝子玉まで往復し、浜茶屋といって一軒、甘酒をのます店があって、二人でしょうがのにおいのそれを、フウフウと飲み、かえれば母のつくったハッタイコ、節子は口いっぱいほおばってむせかえり顔中粉だらけ、節子覚えてるやろかと、口に出しかけて、いやうっかり想い出させてはあかん。
画像 西ノ宮回生病院
海辺から警報がでたから戻りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、機雷投下のB29が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。最初のうちは穏やかで順調だった生活も戦争が進むにつれて、二人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し七月六日、梅雨の名残りの雨の中をB29が明石を襲っているとき、ニテコ池の横穴で、いつも離さぬ人形を抱いて、節子は言った。「お家かえりたいわあ。小母さんとこもういやや」と「あんなあ、ここお家にしようか。この横穴やったら誰もけえへんし、節子と二人だけで好きできるよ。と兄は応じた。
画像 満池谷 ニテコ池
満池谷ニテコ池の畔で洞穴に過ぎない我が家に気が滅入ったが、節子は
「ここがお台所、こっちが玄関」とはしゃぎまわり、喜んだ。夜になると、洞穴の中は真っ暗だった。清太は夥しい数の螢をつかまえて、蚊帳の中に離した。五つ六つゆらゆらと光が走り、蚊帳にとまって息づき、お互いの顔は見えないが、心が落ち着いた。朝になると、螢の半分は死んで落ち、節子はその死骸を壕の入口に埋めた、そして、節子は小母さんから聞いたと、母の死を知っていることを清太に伝えた。はじめて清太、涙がにじみ、「いつかお墓へいこな、節子覚えてえへんか。布引の近くの春日野墓地いったことあるやろ、あしこにいてはるわ、お母さん」と節子に話した。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から食べ物を盗み、時には見つかり殴られながらも飢えをしのいだ。
画像 阪急(当時は京阪神急行電鉄)夙川駅
ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争は終わったことを知る。
清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。
画像 満池谷町の階段 アニメの舞台となった。
月22日昼、節子に食べ物を食べさせるものの衰弱していた。貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた。満池谷を見下ろす丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて、人形蟇口下着一切をまわりにつめ、いわれた通り大豆の殻を敷き枯木をならべ、木炭ぶちまけた上に行李をのせ、硫黄の付け木に火をうつしほうりこむと、大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上がり煙たゆとうとみるうちに一筋いきおいよく空に向かい、清太、便意をもよおして、その焔ながめつつしゃがむ、清太にも慢性の下痢が襲いかかっていた。
日が暮れて丘から見える谷あいの町は灯火管制がとけて昔と変わらない灯火が見えた。夜更けに火は燃えつき、夥しい螢が上がったり下ったりついと横へ走ったりした。
画像 JR三ノ宮駅
節子の遺骨を拾って、サクマ式ドロップの缶に入れた清太は防空壕を去る。ひとり三宮駅に住みつき、闇市の様子やかたわらを通り過ぎる脚の群れを見ながら野垂れ死んだ。清太は、他に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へ納められた。
「火垂るの墓」は野坂昭如の小説で、アニメ映画にもなり、絵本も出版されている。数年前テレビドラマにもなり、映画も作られいています。不朽の名作として英国においても映画化が計画されています。
『火垂るの墓』は生き残ることをシンプルにダイレクトに写実主義で語られる。そしてその中には静寂の時がある。子供たちが蛍を捕まえて、彼らの防空壕を光で照らした夜の中にいることに気付くだろう。
翌日には、清太は彼の妹が虫の死骸を埋めているところを見つける。そのとき節子は彼女の母親が埋葬されたことを思い起こしていた。節子が泥を使っておにぎりと想像上のごちそうを作り食事を用意する描写がある。
あるいは砂浜で彼らが死体を見つけ、そして空の彼方にさらなる爆撃機が現れる生と死の二人の将来を見せているような描写は見事である。
画像 JR三ノ宮駅前風景
文学周遊「火垂るの墓」のは、戦争は極めて控えめに扱われている。世界の通常の多くの国では絶賛されている小説ではあるが米国という戦争の一方の当事者である立場から慎重にその言及を避けたのかもしれないが戦争の悲劇の描写やその記録ではなく、戦時において力の無い幼い二人がどのように生きたのかという部分にあると感じ人間として歴史を的確に表示している作品で決してこの書を読むことなく反戦だとか厭戦だと論ずるのではなく、受けざるを得なかった逆境に力を尽くして幼い二人が懸命に生きる姿を豊かな感情に訴えった作品であると判断できるものだ。
普遍的にいつの世でも十分受け入れられる作品が『火垂るの墓』でそれを体現した作品であると知るべきである。
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