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多田銀銅山跡


大露頭。鉱脈が大きく地上に露出する地層で町の天然記念物に指定されて立ち入り禁止となっています。
この鉱脈に台所間歩や瓢箪間歩が存在していました。
台所間歩、大坂城の台所(財政)を潤すほどの銀や銅の産出量がありその名が残されたていう記録があります。
台所間歩坑口
青木間歩
間歩(坑道)
採掘された鉱石
多田銀銅山 悠久の館
多田銀銅山は、大阪から電車バスを乗り継ぎ約1時間そして徒歩20分の地に多田銀銅山跡があります。
車では一時間少々で到着します。悠久の館という銀山関係の施設もあり駐車場も完備しています。
多田銀銅山は北摂地域に広がる鉱山で、歴史は古く伝承として奈良時代の東大寺大仏建立の際に、ここ多田銅銀山で採掘された銅が使用されたと伝えられています。
猪名川町では、両側の標高300〜400メートルの山に挟まれた野尻川の狭い谷あいの銀山地区、旧銀山町を中心に栄え、豊臣政権時には直轄鉱山となり「台所間歩」や「瓢箪間歩」など秀吉ゆかりの間歩(坑道)が残り銀山の規模を知ることができます。
江戸時代には代官所がおかれ、幕府直轄地となり芝居小屋、茶屋そして遊廓もあり「銀山3000軒」といわれるほどにぎわい我が国の鉱山史に名を残し昭和48年(1973年)に閉山しました。
NIKON D3000 DX AF-s NIKKOR18-55 1:3.5-5.6G ISO 400 絞り優先

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