この隧道は、大阪と奈良を結ぶ初めての鉄道として敷設された大阪鉄道(現JR大和路線)のうち、明治25年(1892)2月2日に開通した 柏原市峠(亀の瀬)・稲葉山(王寺)間に設けられた最初のトンネルです。
この隧道も建設中に地すべりで異常な圧力を受け崩壊する恐れがあり、このため亀の瀬隧道を挟む東口と西口を人力車で連絡して大阪・奈良間を明治24年2月に開業した。この間にルート変更と改修のため芝山隧道を掘削し明治25年1月に開通した。
このルートは、関西本線の坑口跡から峠八幡神宮を経由し稲荷山へと歩いたのですが緩やかな坂道で約1 キロメートルでした。この道は歴史に残る奈良時代難波京と平城京を結ぶ龍田奈良街道の一部でもあります。
亀の瀬は古くから地すべりの頻発した地域で、その後昭和6年(1931)11月にも大規模な地すべ りに見舞われた。この地すべりでトンネルは崩壊し、両側の入口(坑門)も埋ってしまった。国交省の資料や説明会では、昭和7年1月から3月にかけてこの地すべりを見ようと1日2万人近くの見物人がこの地を押し寄せ地すべり災害の絵葉書が発売され野店カフェーが出現したと記録されている。
当時の関西本線は、大阪鉄道開業時のように亀の瀬西口・亀の瀬東口の仮駅を設置し徒歩連絡とした。みこのためこの亀の瀬の不安定な地盤を避けるため大和川左岸の明神山に隧道を堀削し明治7年末に開通させ現在のルートとなっています。
地すべりによる線路の蛇行が記録
この画像は、鉄道トンネル情報にも掲示されていますが国交省く近畿地方整備局大和川河川事務所かすら転載しています。昭和6年峠地区に亀裂が発生し大和川に向かって山塊が移動し地すべりが活動しはじめ大和川の河床が隆起し7年2月には大和川は閉塞されも亀の瀬の地すべり地を通過していた亀の瀬隧道も崩壊した。この時の隧道坑口の画像です。この隧道は、大正13年(1924年)明治時代の隧道は別に単線の亀の瀬隧道を二本堀削し複線化され下り線の一部は明治期の隧道の一部が使用されています。 昭和37年(1962)から始まった地すべり対策工事の なかで、平成20年(2008)11月にこのトンネルの一部(約60m)が発見されました。幅4.3m、高さ4.75mの煉瓦造りの馬蹄形で、 側面がイギリス積み、アーチ部分の天井は長手積みで造られています。地すべりの範囲からわずかに離れていたからだと推定されています。これらのうち、排水トンネルとの交差部から離れた旧下りトンネルの王寺方39mを、約120年前のトンネルの貴重な遺構として保存されることとなり、現在、地すべり見学会に合わせて公開されています。 災害史、鉄道史からも120年前の貴重な構造物として当時の鉄道トンネルの工法を知るうえで貴重な鉄道遺跡である。 左側が上り線(大正7年建設)奈良方面行、坑口の歪みと道床のゆがみが記録されている。右側は下り線(大阪方面湊町行)です。
排水トンネル内部。この排水トンネル工事中に明治時代の隧道が発見された。
煉瓦擁壁が一部くり抜かれ観察できるようになっています。45センチ近くの厚みが確認できました。
災害史、鉄道史からも120年前の貴重な構造物として当時の鉄道トンネルの工法を知るうえで貴重な遺跡であり国土交通省が保存されています。
明治時代の隧道は、旧北陸本線の柳ヶ瀬地区、杉津地区等で現地で観察して記録していますが堅固でありそして丁寧な技法は美術工芸品のようであり現在建築のような軽薄な作りでないことに今回も感動させられました。
この見学を所属している研究会の一環として見学した際の画像です。幹事でもあり撮影に専念できず画像不足があるかと思いつつ作成しています。
亀の瀬 亀岩
川の中にある大きな岩塊から南西に細く突出した部分をもつ巨石は、いかにも甲羅から頭を出す亀のようです。江戸時代後期に刊行された『大和名所図会』にみられる亀岩と同じものを現在も見ることができます。
この亀岩が動くと、地すべりが起こって大和川がふさがれ、大和(奈良県)に洪水が起こるという伝承があります。亀の瀬で地すべりが起こって大和川がふさがれると、奈良盆地は水没し、大洪水になってしまいます。その水は、やがて鉄砲水となって大阪平野を襲い、大阪平野も水没してしまいます。
過去の地すべりの際には亀の瀬付近の地形も変わっています。『大和名所図会』の挿絵では川の中央に描かれている亀岩が、現在は右岸近くにあることもそれを示しています。つまり、亀岩が動いて地すべりを起こすのではなく、地すべりが起こると亀岩やまわりの地形が動くために伝説が生まれた。とされています。
排水トンネル工
亀の瀬地すべり地区には、このような排水トンネルが7,036メートル設置されている。水は、地下水が集められこのトンネルに流れ込んでいる。見学のため歩いていると水が常に流れ込んでいました。
3,900本の集水ボーリングは147キロメートル配置され深層地下水を排除し集水井にまとめて排水トンネルから外部へ排除するための井戸で54基設備されている。
地すべり工事の際、発掘された岩石や埋蔵物が展示されています。詳細な説明バネルもあり、専門的な事項は多くありますが亀の瀬地すべりの歴史をしつかり学ぶことができます。
地すべり対策工事の対策としての抑制工としての排土工、水路工、横ボーリング工、集水井工、集水ボーリング工、排水トンネル工、抑止工として杭工は最大96メートル33メートル、直径6,5メートルの世界最大の深礎工、鋼管杭工の具体的かつ詳細な地すべり対策工事を学ぶことができます。大和路線を乗車していた際、タワークレーンが工事で動いていることを見ていましたのでこの杭工の工事であることを知らされました。
亀の瀬地すべりは、発掘された木片の年代測定では約四万年前からという結果かでています。万葉集に出てくる、「畏の坂」が亀の瀬あたりの道ほを指し地すべりの地をさしていると考えられています。
亀の瀬の地質は、花崗岩の基岩の上に第三紀の火山岩や、堆積岩が積み重なって出来ている。特に亀の瀬の北方にあるドロコロ火山が数百万年前に新旧二回にわたり噴火してできたと推定される、溶岩流ドロコロ火山岩が分布する高含性の粘性帯の上に荷重の大きい溶岩がのり大和川方面に傾斜しているため発生したとされています。火山の面影はみることはできませんが数百年前の出来事が息づいていることをしらされました。
その後も地すべりは発生していますが、昭和37年から国が最先端の技術で対策工事が行われ現在では地区内の土塊移動はほとんどなくなっているが、地下水位計、伸縮計、流量計等らよる集中監視システムの観測により東端の稲荷山付近で年間2ミリの地すべりが記録されているため対策工事は継続させているとの説明がありました。
大和路線の車中から亀の瀬地区の光景を眺めそして大和川の水害を知らされていましたが亀の瀬地すべり歴史資料館を訪ねそしてこの地区を歩き長年の疑問が解消しました。
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