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芦屋の邸宅 六麓荘 続 ハイコントラストモノクロ

バブル経済崩壊と阪神・淡路大震災以後の近年では世代交代や高額の相続税の支払いが原因で、土地を手放す住民が増加しています。そのうえ町内会の環境保護や景観保護が紳士協定に過ぎない建築協定では風致を維持することができなくなることが懸念されるようになり住民は強制力のある条例による景観保護を市に求めた。
住民の要望を受けて芦屋市は「建築協定」をそのまま「条例」に格上げし「景観保護条例」を市議会に提出した。2006年(平成18年)12月22日の芦屋市議会で全会一致で可決されて007年(平成19年)2月1日から施行され六錄荘の景観がほごされています。






久しぶりに六麓荘の邸宅街を歩きましたが、1,000㎡以上の広大な敷地の個性豊かな家屋が見られる緑豊かな住環境は素晴らしいの一言でしかありません。
標高も高く大阪湾一帯が眺望できる地で過ごすことは至福の時間があるのではと想像してしまいます。鉄道の各駅からは少し遠いですが。
sony NEX-5  E16mm   F 2.8  

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芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

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