八軒家船着場跡の碑
八軒家は、江戸時代に京都と大坂を結んで行き来した三十石船の船着場でした。西鶴の浮世草子の「世間胸算用」には天満橋や淀川周辺の地や八軒家の船着場と伏見を行き来する三十石船がよく登場しています。
八軒家については「其よもすがらひとりねられぬままに書つづけ行にあかつきのかね八軒家の庭島に驚き待つる」と記している。
八軒家船着場跡の石垣
江戸時代、現在の土佐堀通りのあたりの淀川で当時の川幅は6メートル程度でその後河川改修が繰り返され浚渫作業で現在の川幅になったという長い歴史があります。
当時の川岸だった船着き場跡の南側に石垣が2段に残り下段はは江戸時代、上段が明治時代に築かれたとされています。
江戸時代に刊行された「摂津名所図会」には、
大江岸(おほえのきし)古歌の心を按ずるに天満橋南爪、今の八軒家の浜なり。これより南の方一堆の丘山にして、西北は大江なり。大坂旧図を見るに大江橋・渡辺橋は一橋二名なり。
八軒屋といふは旅舎八家つらなりて、京師の上下夜となく昼となく入船出船ありて喧(かまびす)し。この地すべて夏の夜に蚊なし。風土の奇といふべし。
大江岸(おほえのきし)古歌の心を按ずるに天満橋南爪、今の八軒家の浜なり。これより南の方一堆の丘山にして、西北は大江なり。大坂旧図を見るに大江橋・渡辺橋は一橋二名なり。
八軒屋といふは旅舎八家つらなりて、京師の上下夜となく昼となく入船出船ありて喧(かまびす)し。この地すべて夏の夜に蚊なし。風土の奇といふべし。
わたのへや大江の岸にやどりして雲井に見ゆる生駒山かな 良暹法師
船呼ばふ声もおよばずなりにけり大江の岸のさみだれの頃 長俊
さみだれは日数ふれどもわたのへの大江の岸はひたらざりけり 隆源法師
と歌にも詠まれ景勝の地であった。
船着き場跡の階段
幕末新撰組が定宿にしていた京屋は、この階段を上った所にあったと言われています。新撰組が最初に京屋を利用したのは1863年(文久3年)に将軍家茂の警護を行った時だったとのことです。その後しばし隊士は訪れたが最後に訪れたのは鳥羽伏見の戦いの後で大坂城二の丸に移り火災に遭遇し改めて京屋に移った。京屋は新撰組の黎明期からその最後までを見守ってきた宿舎でした。江戸時代初期から歴史上の人物がここを通過したのでしょうか。
京のみではなく大坂にも新撰組ゆかりの地があることを知ってほしいものです。
歴史小説や通俗小説ではこの地は登場していますが通過点のためか詳しくは描かれていないのですが歴史上の実在の人物が数百年間にどれだけ往来したか驚くべき数の人々となるでしょう。調べることはこれからの課題です・・・・・
森鴎外著 歴史小説 「大塩平八郎」の一節に
京のみではなく大坂にも新撰組ゆかりの地があることを知ってほしいものです。
歴史小説や通俗小説ではこの地は登場していますが通過点のためか詳しくは描かれていないのですが歴史上の実在の人物が数百年間にどれだけ往来したか驚くべき数の人々となるでしょう。調べることはこれからの課題です・・・・・
森鴎外著 歴史小説 「大塩平八郎」の一節に
「14人はたつた今7.80人の同勢を率(ひきゐて)渡つた高麗橋(かうらいばし)を
、殆(ほとんど)世を隔てたやうな思(おもひ)をして、同じ方向に渡つた。河岸かしに沿うて曲つて、天神橋詰(てんじんばしづめ)過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋(さんばし)に一艘(さう)の舟が繋つなつないであつた。船頭が一人艫(とも)の方に蹲(うづくま)っている。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形(やかた)のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食(めく)はせをして、此舟に飛び乗つた。跡(あと)から十三人がどや/\と乗込のりこんだ。「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。 不意を打たれた船頭は器械的に起(た)つて纜(ともづな)を解いた。舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒(もんめづゝもん)、其外の人々は手鑓
(てやり)水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込(きごみ)を脱(ぬ)いで、これも水中に投げた。「どつちへでも好いから漕ころを操(あや)らせた。火災に遭(あ)つたものの荷物を運び出す舟が、大川(おほかは)にはばら蒔いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑(ま)じつてのぼつたり下(くだ)つたりしてゐても、誰も見咎(みとが)めるものはない。」
と八軒家から船で土佐堀川へと敗残への道行きが描写がされています。
水上バスの船着き場として新設された現在の八軒家浜
江戸時代、京都と大坂を行き来する船には淀川独自の喫水が浅い淀二十石船、三十石船伏見船(一五石)が最盛期には千数百艘が往来していたのですが、明治時代になると三十石船に代わって蒸気船(川蒸気)が就航し時間短縮がすすみ京阪間の貴重な交通機関になった。ちなみに京都市電が開通したのは京都駅と伏見を結ぶことから路線が広がったとされている。淀川の遊船業が復興したりするなど大阪、伏見の船運業界は活気があった。しかし明治の終わり頃鉄道や道路の整備がすすみ淀川を利用する船運は衰退しはじめ昭和37年に大阪・伏見間の物資輸送は古事記や日本書紀の時代から継続していた物流は途絶え、現代では土石運搬船や不定期の観光線が往来しています。
明治初期に上方落語の「三十石夢之通路」が演じられています。噺は、京と大坂を結ぶ三十石船の船上を主な舞台として主人公二人が京からの帰途、伏見街道を下り寺田屋の浜から夜船に乗り大坂へ帰るまでを描く。前半は宿の描写、船が出る時の賑わい、美人が乗ると思い込んだ好色な男の妄想、道中に出会ういろいろなものに触れての軽妙な会話、船頭などの物まね等が続く。後半では船中で金が盗まれる騒動が起きるが船頭の機転で盗んだ男が捕まり、噺はめでたく結ばれる。の舞台となった作品がある。
明治から平成へと近代化がすすみ現代では京阪本線中之島新線が地下鉄谷町線が交差し谷町筋は天満橋とその上を通過し昔を偲ばせる光景はいっさいなくなり三十石船が往来した大川はアクアライナーが観光船が就航し周辺では商業施設の再開発が進められ水都大阪再生の取り組みが行われている。
文学周遊ということで八軒家浜周辺を主として取り上げました。歴史の深い所ですので今後も調査を継続したいものです。
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