埋め立てられた神戸京橋の橋詰めに3基の碑が並んでいる。書籍を開いた形の碑文のある「史蹟旧海軍操練所跡」碑 、「史跡 海軍操練所址」及び「神戸電信発祥の地」である。
神戸海軍操練所は、日本海軍の発祥地とされる。
安政2〜6年(1855〜1859)に長崎海軍伝習所が開設されていたが、この神戸操練所は、日本を防衛するという意識で元治元年(1864年)5月に開設され本格的な海軍養成を目指した。
神戸海軍操練所跡由来として碑文は
万延元年〈1860年)一月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、臨丸〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久三年(1863年)四月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。
元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)三月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。
今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。
ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。
昭和四十三年十月建之
神戸海軍操練所跡由来碑の横の碑文
不鮮明はあるが、神戸電信発祥の地の碑の横に、正面には史跡 海軍操練所址神戸市。と刻まれている。側面に、昭和二十九年二月
背面には、文久三年(一八六三)勝海舟が徳川家茂に建白して開設したもので海軍営海軍所海運局とも呼ばれ短期間であったが坂本龍馬 陸奥宗光 伊藤祐亨など多くの偉材を出した。
と刻まれている。
神戸電信発祥の地の碑
碑文は、明治三年 この所に神戸伝信機局が置かれ八月二十日大阪との間に始めて通信が行われました。開局三十周年を記念してこれを建てる。
昭和三十四年九月
と刻まれている。
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