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大阪樟蔭女子大学  田辺 聖子文学館



2019年6月6日、作家の田辺聖子が91歳で亡くなっている。
1956年のデビュー以来、長きにわたって残した彼女の足跡が、いまの文芸界の一端を形作っていることは間違いないことたろう。

田辺聖子と交流が深かった小松左京は田辺聖子さんの作品に強く心を引き付けられた理由として「文章の何とも言えない明るさと、ヒロインのかわいらしさ」と記しています。月並みだけど「文は人なり」とも。書く人の人柄や姿勢というものが文章に遺憾なくあらわされているとのこと。
現代小説の作家たちには決して描くことのできない高度で質の高い日本文学の文学作品でこの田辺聖子への言葉には異論はなく私も特に心惹かれて数多くの作品を読了している。

田辺聖子文学館は、素晴らしい文学者として名作を残している田辺聖子の偉業を残すために大阪樟蔭女子大学の創立90周年記念事業として会館しています。



夢生まれる
 文学少女セイコ  夕焼け小焼けの下町育ち

1928年(昭和3年)大阪の下町福島。田辺写真館の娘として生を受けた田辺聖子は家族の温かな愛情に包まれて幼少時代から少女時代まで過ごしました。
しかし、淀之水高等女学校へ進学する頃にはぐんかの響きが高まり田辺聖子一家もいやおうなく戦争に巻きこまれて行きました。幼い頃から読むこと書くことが好きだった田辺聖子は、この頃から「作家の眼」で自分自身と周囲を観察しており、心はずむ出来事も辛く悲しい出来事も全て後の著作と人生の糧として生かされています。
画像は4歳の田辺聖子


夢ふくらむ
樟蔭女子専門学校の田辺聖子
樟蔭は美しい学校だった。
田辺聖子が樟蔭専門学校に入学したのは太平洋戦争まっただ中の1944年(昭和19年)。動員により学ぶこともままならない日々の中大阪空襲を経てやがて終戦。人々はそれまでの激越な戦争讃美から平和と民主主義を声だかに叫ぶようになった。
天が地に地が天に変わった社会常識に、これからは自分自身の頭で考えて判断するのが一番大事だと思い至ったのです。大阪空襲の折鶴橋から福島まで歩いて帰った時に見聞きした悲惨な被災状況から感じたこともその後の人生に大きな影響を与えています。


   再現された書斎


書斎風景です。週刊誌等の取材で馴染みのある方が多いかと思いますが、スヌーピー等のぬいぐるみが数多く展示されています。
まるで少女のような部屋で質的に高い小説を執筆されていたようです。

 宝塚歌劇の熱烈なフアンでもあり煌びやかな服装も展示されているように真似されていたようです。歌劇のポスタも展示されています。

最近、田辺聖子の作品は読んではいないのですが文学館をたずねて新たな発見があり心豊かに時間を過ごすことができました。

AFS  NIKKOR35  f1.8GED

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